この年は、教育勅語が発布された。
教育勅語は、明治23年(1890)に、明治天皇の名で発表された。それは、明治天皇が国民に語りかける形式をとっている。父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の道徳が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。
この年の7月1日、第一回衆議院議員総選挙が行われた。
選挙権は「直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性」とされたため、有権者数は全人口の約1・13%に過ぎなかった。原則として小選挙区制だった。
愛知県は、第1区(名古屋市)、第2区(愛知郡)などと11に区分された。第1区では、 堀部勝四郎が当選した。
11月には帝国議会の開院を祝う祝賀行事が各地で行われた。名古屋市は11月29日に祝賀会を発起した。祝賀会では、末広座(若宮八幡宮)において、中村鴈治郎が祝辞を朗読した。祝宴の余興として、長者町の盛栄連から芸妓が繰り出した。会場には、神武天皇の肖像を建て、その頭上には1千個の電灯を点じた。〔参考文献『名古屋市史』〕
この明治23年(1890)、東京の上野で第三回内国勧業博覧会が開催された。
佐吉は、新聞記事を読んでから、博覧会の会場にある機械館を見たくてならなくなった。母親を説得して、上京して、すぐその足で博覧会に飛んでいった。
機械館には、大小様々な機械が陳列してあった。佐吉は吸い付けられるように終日、機械館を歩き回った。時たま機械が運転されると、最前列に土下座してその動きを凝視した。佐吉にとっては、この機械館こそ最高の学校だった。佐吉は安宿に泊まり込んで、毎日機械館に通った。
そんなことが10日以上も続くと、会場の看守人が不審がるようになった。田舎の色黒の青年が毎日機械館に姿を現し、終日立ち去らぬのである。看守人は、佐吉を不審人物扱いするようになった。
ある日、看守人に呼び止められた。
「君はもう2週間も毎日機械館へやって来るが、いったいどういう目的かね?」
佐吉は平然と「機械の見学です」と答えた。
「見学も好い加減にしてくれないと困る。君も承知の通り、会場は随分混雑しているのだからね」
「しかし、まだわからぬからやむを得ません」
「そんな勝手を申すなら退場させるぞ」と看守人はいよいよ怒り出した。
だが、この時ばかりは温厚な佐吉も逆に怒った。「退場とは何ごとだ。如何なる理由で退場を命ずるのか知らんが、君も日本人だったら、機械をよく見たまえ。出品されている機械はみな外国製ではないか。日本人の手に成った機械が一つでもあるか?君は口惜しいとは思わないか。僕は胸が沸き立つように残念だ。だから何か一つ便利な機械を発明しようと思って見学に来ているんだ。それがどうして不都合なのだ!」と激しく詰め寄った。
看守人も、それ以降、佐吉の行動を黙認するほかなかった。
佐吉はこの明治23年、最初の発明を成し遂げ、発明家として貴重な第一歩を踏み出した。木製人力織機の発明だった。従来の手織木綿のムラを除去し、4割から5割の増産が可能になった。故郷の近くの機屋でテストしたところ上々の結果が出た。佐吉は、初めての発明が完成すると、上京して特許権の申請を行った。
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