日本は明治18年(1885)、太政大臣に代わる内閣総理大臣制度に移行し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する候補者は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回していた伊藤博文だった。
初代総理大臣を決める会議では、誰もが口をつぐんでいる中で「これからの総理は外国電報が読めなくてはだめだ」という意見が出て、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって博文は初代内閣総理大臣となった。以後、博文は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。
プロシア(ドイツ)陸軍の参謀将校メッケル少佐は、明治18年(1885)に着任した。陸軍大学校で教鞭をとった。メッケル少佐は、〝知謀神ノゴトシ〟といわれたほど、本国でも評価が高かった。
日露戦争を勝利に導いた日本軍の将校のほとんどがメッケルの門下生であり、「日露戦争の作戦上の勝利は、メッケル戦術学の勝利である」とさえいわれた。メッケルに教えられた好古は、陸軍大学校を卒業して、参謀本部に出仕した。
この年は、専売特許令という法令が公布された。佐吉はその法令の内容を知って、発明家を目指したいという気持ちが強くなった。
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