政府は明治11年(1878)、官営紡績所を愛知県と広島県に設立した。幕末の開国以来、綿製品の輸入が急増したことに対抗するためだった。紡績などの繊維産業を興すことは、明治日本の大きな課題だった。
そうした背景の中で、名古屋で設立されたのが名古屋紡績だった。この名古屋紡績の設立は、名古屋では、近代的な企業の誕生した草分け的な存在になった。
その設立を推進した中心人物が村松彦七だった。
村松は江戸時代からの豪商だった小野組の名古屋支店の支配人だったが、明治7年に小野組が倒産すると、名古屋七宝の社員になった。明治11年にパリの万国博覧会に愛知県出品人総代としてフランスに渡ったが、その際に船中で松方正義(当時は内務省勧業局長)と面識を得た。2人は意気投合して、たちまち旧知のような間柄になった。
パリ博覧会の終了後、村松は誘われるがままに松方に同道して、フランス、イギリス等の経済・産業の実情をつぶさに視察した。その見学を通じて、愛知県が日本有数の綿産地であることから、愛知県に紡績工場を設立することを決意した。
村松は名古屋に帰ると、イギリスで感銘した近代的紡績工場の設立を岡谷惣助らに提案した。この村松の着想に、名古屋の商人たちが賛同する形で設立されたのが名古屋紡績だった。
名古屋紡績は、イギリスから紡績機械を大量に購入するにあたり、政府から資金貸与を受けた。名古屋紡績の設立発起人は、明治13年にイギリスから購入する紡績機械の代金を政府に立替払いしてもらうことを認可された。紡績機械は明治14年に到着して、いよいよ工場の建設という段になって、新たな問題に直面した。動力だった。
当初、動力は水力(水車)とする考えだった。政府は木曽川・矢作川・豊川を調査し、適地を候補地として提案した。発起人たちは葉栗郡宮田村(現・江南市)を工場設立地に決定した。だが、そこは木曽川沿いであったために、堅牢な建物を造る必要があり、工事費が巨額になることが判明した。そこで発起人たちは、水力を諦めて、蒸気力の採用を検討するが、九州から石炭を購入するのは費用がかさむ。こうして設立計画は、暗礁に乗り上げた。
設立発起人たちは、政府に対して、まだ会社が設立できていないことを理由に、返済を猶予してくれるように請願した。
動力の問題は、結局、火力、つまり蒸気力とすることで結論が出た。
設立発起人たちは、工場の設立場所を名古屋区正木に定め、会社設立に向けて本格的に動き出した。資本金は3万4千700円とした。設立発起人は村松彦七、岡谷惣助、祖父江重兵衛、花井八郎左衛門である。
株主は、徳川義礼、伊藤次郎左衛門、岡谷惣助、祖父江重兵衛、伊藤忠左衛門、村松五郎、吹原九郎三郎、武山勘七、祖父江万次郎、岡田徳右衛門、中村与右衛門、横井半三郎、花井八郎左衛門らであった。株主構成で分かる通り、旧尾張藩の時代からの土着派の商人が多かった。
工場は明治18年に完成し、開業にこぎつけた。
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