明治19年(1886)、笹島に名護屋駅ができた。しかし、葦の茂る沼地だっただけに停車場一帯は寂しい風景だった。
この名護屋駅を造る上で、一番の功労者になったのは当時の名古屋区長だった吉田禄在だ。東京と大阪を結ぶ鉄道は、海からの艦砲射撃を避けるために中山道を走らせる計画だった。もしそうなっていたら〝名古屋飛ばし〟になり、名古屋は発展から取り残されてしまう。そう危機感を抱いた吉田は、中央への陳情を重ね、ようやく名護屋駅の開業に至ったという経緯があった。
笹島から納屋橋に至る区間は、それまでは「笹島街道」という細い路地があった程度だったが、吉田は、民間から寄付金を集めて、拡幅した。〔参考文献『明治・名古屋の顔』(服部鉦太郎 六法出版社)〕
佐吉の発明家としての人生は、明治20年(1887)から始まった。佐吉の最初の発明は、バッタンハタゴ(織機)の発明であった。ハタゴとは、布を織る機械である織機のことである。
佐吉の郷里は、遠州木綿の産地として有名で、村人たちが農閑期の副業として手織木綿を織るのが習慣になっていた。その織機は「バッタンハタゴ」とも呼ばれた原始的な代物で、一反の木綿を仕上げるにも多くの時間と労力がかかった。にもかかわらず、村人たちはその不便さも感じずに当然のこととして使っていた。
佐吉は、子供の頃から見てきたハタゴを改めて見直してみて、その重要性に気が付いた。人間の生活で何よりも大切なのは衣食住である。その「衣」がいつまでも原始的であって良いわけがない。「よし、自分がやろう」という決意がふつふつと涌いてきた。
佐吉は当初、織機に関して何の知識もなかった。したがってイロハから習得する必要にかられ、大工の仕事の暇を盗んでは織機の研究を始めた。
佐吉はひとたび決意するや、織機の研究に異常な熱意を傾けるようになった。農家に出掛けては、自ら頼んでハタゴを操作させてもらった。農婦たちは、佐吉の異様な執着に奇異な印象を受けるようになった。狭い村のことだから、噂はすぐ広がった。「娘っ子の真似をする変な奴」と陰口を叩かれるようになった。奇人変人扱いだった。
そんな佐吉をみて、怒ったのは父伊吉である。伊吉は佐吉を自分の後を継ぐ優秀な大工に育てようとしていたから、大工の修業に専念して欲しかった。佐吉を呼び付けて何度も叱責した。
だが、佐吉の決意は微塵も揺るがなかった。伊吉は呆れ果て、仕方なしに佐吉を仲間の大工のもとへ修業に出すことにした。その大工は豊橋にいた人で、佐吉は明治20年に預けられた。佐吉は大工見習いとして預けられたにもかかわらず、そこでもハタゴの研究に没頭してしまった。そんなことだから、そこからも追い出されて、半年後には実家に戻った。佐吉は母に泣きついて若干の金を得ると、またハタゴの研究に着手した。材木を仕入れて、ハタゴを作った。
佐吉は、村内の納屋を見つけて、そこへ絵図面と材料を持ち込んで閉じ籠もるようになった。納屋を研究室にしたのだ。この納屋は今でも大事に保管されて文化財になっているが、当時は村人たちの間では嘲笑の的だった。
佐吉は、ハタゴを作ったり、壊して再度作り直したり、研究に余念がなかった。だが、いかんせん資金が続かなかった。その資金は友人知人から借りまくった。だが、無心も2度3度となれば、誰しも手を引いてしまう。
常に資金に悩み続ける発明家人生の始まりだった。
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