旧士族に対する秩禄処分は、各地で反乱を招いたが、その最大のものが明治10年(1877)の西南戦争だった。反乱軍の中心人物は、維新の元勲・西郷隆盛だった。
徴兵制で集められた政府軍は、百姓の兵隊といわれたが、苦戦しながらも最終的には西郷軍に対して圧勝した。
だが、西南戦争は、政府に与えた打撃は大きかった。西南戦争の戦費は4千万円にのぼり、当時の税収のほとんどを使い果たすほど莫大だった。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し、インフレを招いた。
明治10年(1877)、西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会が開催された。ウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めた。
会場は、東京上野公園だった。約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。また、公園入り口に造られたアメリカ式の風車や上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が彩りを添えた。
全国から集められた出品物は、大きく6つの部(鉱業および冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われた。優秀作には賞牌・褒状等が授与され、いわば物品調査と産業奨励が同時に行われた。
博覧会は会期中、45万人が観覧した。
愛知県は、尾張から389店、三河から174店が出店した。七宝、生糸、玩具、茶、農産物など2千484点に及んだ。
この博覧会は、政府肝いりのビックイベントだっただけに、参加企業も熱が入っていた。例えば、岡谷鋼機の社史では「アメリカ式の木工用鋸盤を出品した。これは我が国において世に紹介された木工機械の第一号機であっただろう」と自負している。
好古は、東京予備教員として上京した。その後で、陸軍士官学校に入学した。好古は陸軍の制服のままで松山に帰ってきた。その立派な姿に、真之は驚いてしまい、思わず隠れてしまったという。
この好古という兄は、よほどの弟思いだった。家を出る際には、父に次のように言い残していった。
「二年経ってあしが少尉になると、淳は小学校を出る。金を送るけん、淳を中学に入れてやってくだされ」
好古は「父さんこれは約束ぞな」と真顔でいった。真之を助けてやってくれといった十歳のときの言葉を、好古は大まじめで守ろうとしていた。(『坂の上の雲』)
佐吉は寺子屋に通い出した頃から、無駄口をたたかない、むっつりした子供になっていた。寺子屋での学業は秀才というほどではなかったが、すこぶる負けず嫌いで、いかなる事も初めから人に訊くのではなく、まず自分で考えてみるタイプだったという。〔参考文献『豊田佐吉傳』(トヨタ自動車工業)〕
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