鹿鳴館は、旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区。帝国ホテル隣)の地に建てられた。明治13年(1880)に着手し、明治16年に落成した。
計画を推進したのは外務卿・井上馨だった。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、欧米列強は治外法権撤廃に反対していた。
そのため井上は日本の欧化を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。そこで毎晩のように舞踏会を開催し、日本が西洋文明の一員であるかのようにみせかけた。
栄に明治屋があるが、その場所には明治時代に「秋琴楼」という旅館があった。当時の名古屋を代表する一流旅館で、伊藤博文、板垣退助たちは、来名した折にはこの旅館を常宿としていた。そこが自由民権運動の事件現場になったことがあった。
板垣退助が岐阜で襲われた翌年の明治16年(1883)、名古屋でも政党の衝突により事件が起きた。自由党と立憲改進党が秋琴楼を舞台として抗争した「秋琴楼事件」である。
愛知県で勢力をもつ自由党に対し、立憲改進党は、3月、末広座において大演説会を開催し、党勢の拡大を図ろうとした。東京から来た立憲改進党の弁士は、尾崎行雄らだった。末広座とは、若宮八幡宮の敷地内にあった芝居小屋だが、足の踏み場もないほどの超満員だった。
だが、会場内では自由党の内藤魯一が指揮者となって、演説会を中止させようと手ぐすねひいて待ちかまえていた。尾崎行雄が舞台に上がり、自由党を弾劾する演説を始めた。内藤魯一が合図をすると、自由党員が舞台にかけあがった。会場は大混乱となり、演説会は中止となった。翌日、秘密裡に立憲改進党の党員だけが集まり、旅館・秋琴楼で有志懇談会を開くことにした。
これを知った自由党員は夜、秋琴楼になだれ込み、汚物を詰めた酒樽を、会場の大広間に投げつけた。名旅館の掃除の行きとどいた広間は、異様な臭気を放ち汚物は散らばった。
子規は明治16年(1883)6月、松山中学を5年生で中退して東京に行くことになった。
真之は松山に残されたが、真之にも同じ幸運が訪れることになった。兄の好古から「すぐ上京せい」という手紙が来た。
真之は東京に行き、兄好古の下宿先を探した。麹町三番町に佐久間正節という旧旗本がいて、先祖以来の屋敷に住んでいた。好古はそこに下宿していた。
好古の部屋は、調度品とか道具とかいったものは一切なかった。部屋の隅に鍋が一つ、茶碗が一つ置いてあり、それだけが家財道具らしかった。
その日の夕飯は白飯とたくわんだけであった。あまりに質素な食事に真之は驚いたが、粗食主義というわけではなく、好古が単に食に無頓着なだけであった。
だが、17歳になる頃から、何かしら深く考え込むようになった。明治16年(1883)頃はひどい不景気で、いずれの方面も青息吐息の状況で、普請を見合わせるところが多く、大工の仕事も減り、おかげで1週間も10日間も仕事がないのは珍しくなかった。だから佐吉は終日家に閉じこもり、新聞や雑誌を読みふけった。この読書が佐吉の見聞を広げた。しかし、それと同時に何かしら深く考え込むようにもなった。
佐吉はその頃、夜学校にも通うようになった。夜学校というのは、村の若者が自発的に集まって勉強会を行う場だった。場所は村の観音堂で、そこに集まって、例えば日本外史の素読をはじめ、時には知識を持ち寄って談話会のようなことをやったのである。
佐吉が15、6歳に達して世間を見る眼ができた時、心を打った光景は、郷里のあまりにも貧乏に打ちひしがれた状態だった。中でも佐吉の出生地は殊の外ひどかった。
遠州は、古来、遠州織物の産地として知られていた。だが、安政5年(1858)の開港以来、産地は大きな打撃を受けていた。良質で安価な綿織物の輸入が増加し、毛織物と合わせると、それが輸入品の9割に達したという。そのため昔からの織物業は壊滅的な打撃を受けた。
佐吉が、発明によって郷里の貧乏を救いたい、国家を富ましめたいと志すようになった背景には、この貧困があった。
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