すわ戦争か?
明治24年(1891)の5月11日、日本中を震撼させた事件が起きた。ロシアの皇太子ニコライが日本を訪れたが、大津を通った際に暴漢に斬り付けられた。幸い命に別状はなかったが、大怪我だった。
この事件は、誰もが日本の破滅を想像した。戦争になれば、ひとたまりもなかった。明治天皇自らがすぐお見舞いと陳謝に出向いた。東京のロシア公使館には、お見舞い状が1万通以上届き、日本中に〝陳謝の運動〟が巻き起こったという。
こんなこともあり、ニコライの日本嫌いは激しくなった。ニコライは日本人のことを公然と「猿」と呼び捨てるようになり、日本に対する敵意をむき出しにするようになる。やがてそれが日露戦争へとつながることになる。
日本人はこの年、外国の脅威を何度も味わうことになった。7月には、清国の北洋艦隊が日本を訪問してきた。「親善のため」ということだったが、「定遠」という巨大な軍艦を含む大艦隊で、日本に対する威圧そのものだった。
秋山真之は、少尉候補生だったので、この北洋艦隊を間近で見ることができた。
濃尾大地震は、明治24年(1891)10月28日午前6時37分に発生した。震源地は本巣郡根尾谷(現・本巣市根尾)。
愛知県内では、死者が2千638人に達した。家屋全壊が8千棟、家屋半壊が5万棟だった。中でも煉瓦造りの建物の被害は大きかった。名古屋鎮台、県庁、裁判所、郵便電信局、紡績会社、電灯会社、学校などで甚大な被害が出た。
家を失った名古屋の人々は、大須公園、若宮八幡宮、広小路通、東照宮境内などに仮小屋を建てて、苦しい生活を送った。
濃尾大地震は、名古屋商人に大打撃を与えた。
尾頭橋付近でできあがったばかりだった尾張紡績は、2階が崩れ落ちた。ちょうど運悪く昼勤と夜勤とが交替する時間帯だったので、大勢の従業員が出くわしたことで被害者が増えた。
名古屋商業会議所の調査によれば、被害が大きかったのは、呉服太物洋反物、米穀、陶器、薬種、絵具、染料で、特に呉服太物洋反物の被害高は26万円に達した。間接被害高の最高は酒類で20万円だった。
日本経済は、不況が24年夏まで続いていた。24年は商況に回復のきざしがみられたのも束の間、10月28日に発生した濃尾大地震により打撃を受け、景気回復の気運が一挙に消滅してしまった。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
佐吉は明治24年(1891)、豊田式人力織機の特許権を得た。その特許権を活用するため、東京の浅草で自ら機屋を開業した。父から独立して暮らしたい、という一念があった。
残念ながら、この事業はうまくいかなかった。
だが、この失敗も佐吉にとっては大きな勉強になった。
佐吉は考えた。行き着いたのは「いかに優秀な織機が発明されても、1人の人間が1台の機械を動かすだけでは能率が上がらない」という当たり前の結論だった。そこで「人間が織る織機」ではなく「機械が織る織機」の開発に転じるようになった。
当時では、動力で織機を動かすのは、夢のような話であった。発動機といっても、電力、蒸気などの動力に関して、まだ知る人が周囲にほとんどいなかった。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274