「青雲の志を抱く」という言葉がある。「青雲クラウン」という社名を聞いて、由来が気になったが、やはりその言葉が由来だった。
創業家の青山家には、一つの掛け軸が残っている。写真の左側に老人の肖像画があるが「天保七年 仏壇屋 青山儀兵衛」となっている。天保7年(1836)といえば、天保4年から天保10年まで続いた天保の大飢饉の真っ最中である。肖像画の主は、旦那然としているから、仏壇屋の大旦那だったのではなかろうか?
この「青山儀兵衛」の子が儀蔵で、そのまた子が鎮治郎である。その鎮治郎が明治8年(1875)に創業したのが青雲クラウンだ。もっとも、明治8年というのは鎮治郎(文久元年 1861年生まれ)がまだ14歳であることを考えると、実際には父儀蔵が支援して創業したと想像するのが自然かもしれない。
鎮治郎は幼少期に名古屋の東照宮の境内にあった寺子屋に通って読み書きを学んだ。鎮治郎の開業を祝して、その先生が付けてくれたのが「青雲堂」という屋号だったという。鎮治郎の創業の地は、旧町名でいえば「玉屋町4丁目」で、現代の人に通じるように表現すれば三菱東京UFJ銀行の名古屋営業部(旧東海銀行本店)の場所である。明治6年には、義務教育令が施行され、墨とかソロバンとかの学用品の需要が急増したのが、創業の背景にあった。
昭和の時代になると、鎮治郎の五男である房三が二代目として登場する。昭和8年(1933)に店主となった。房三は店舗が狭隘になったので、昭和15年に本町通を北へ少し行った場所に移転した。まさに碁盤割のど真ん中で、近くには本町や長者町などに繊維の会社がいっぱいあり、繁盛していて、名古屋の経済界の中心部だった。そこを拠点に青雲堂は大発展した。
だが、時は戦争へと向かっていた。青雲堂の店は全焼してしまった。運悪く、創業者の鎮治郎も昭和20年に亡くなってしまった。
房三は、東区水筒先町で焼け残った借家があったので、そこを修理して文具商を始めた。「父亡く、番頭なく、誰もいない中での再建だった」と当時を記している。房三は、昭和22年には再び本拠地の本町に戻ってきて、再建を目指すことになった。
青雲堂は戦後の名古屋経済の発展を背景に、順調に発展を遂げた。昭和35年には中区丸の内3‐13‐27(中日病院の南側)で鉄筋コンクリート4階建ての新社屋を建て、それとともに事務用機器・スチール事務用家具の販売に重点を置くようになった。
房三は昭和44年に会長となり、長男の正幸氏を社長にした。平成6年(1994)に92歳で天寿をまっとうした。正幸氏は、父から「身の丈にあった経営に徹しろ」と何度もいわれたという。青雲クラウンは、現在正幸の長男の英生氏が社長になっている。
本社所在地は、名古屋市名東区社台3‐241。
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