笹徳印刷といえば、豊明にある有力印刷会社だが、その創業の地は茶屋町(現・丸の内2丁目)だった。茶屋町は、現在は愛知県産業貿易会館西館などがある所だが、昔は松坂屋のルーツ「いとう呉服店」があった場所だから、位の高い商人が軒を並べていた。
笹徳印刷の創業者は、杉山徳三郎という。徳三郎は岐阜県で農業を営んでいた又三郎とつるとの間に、明治11年(1878)に生まれた。父又三郎は、農業に見切りを付けて名古屋の茶屋町に引っ越し、六畳一間を仕事場にして紙函職人の仕事を始めた。
その徳三郎は明治23年に「笹徳」という看板を掲げて創業したが、その時にまだ12歳だから、父又三郎の応援の元での創業だったとみるのが自然だろう。また、徳三郎の兄の末吉(七五郎)は、名刀家に養子に入って後継者となり、二代目末吉として「笹屋」という店の主になるので、この兄の支援もあったことだろう。
徳三郎が始めた仕事は、色々な商品を入れる「函」の製造販売だった。その函は、その後板紙が登場して「紙器」になっていくわけである。徳三郎は器用な人で、紙器を量産するための工夫を凝らして商いを伸ばしていった。
徳三郎は、営業力もあった。茶屋町の東側には薬種商が並ぶ京町があったので、そこに精力的に営業活動をした。おかげで有力な会社を顧客にすることに成功した。日本は日清・日露戦争を経て経済発展を遂げるが、その成長の波に乗ることができた。徳三郎は大正9年(1920)、店名を笹徳紙器製作所と改称した。
徳三郎は妻とめとの間に何人もの子供がいた。長男信義は二代目になった。だが、30歳という若さで病に倒れ、昭和8年(1933)に帰らぬ人になってしまった。
その信義の後は、四男の雅彦が受け継いだ。雅彦は、大正元年生まれで、昭和8年の社長就任時に21歳だった。翌年の9年には父徳三郎が逝去してしまったので、若き当主には試練だった。
雅彦は、先代から教えられた開拓精神で顧客を増やしていった。その中にはトヨタ自動車も入っていた。豊田佐吉は昭和5年に亡くなり、『豊田佐吉傳』が昭和8年に発行された。その復刻版を昭和30年にトヨタ自動車工業が再版した。その巻末は「印刷所 笹徳紙器印刷株式会社」となっている。佐吉の伝記まで委託したのだから、よほど信頼されていたのだろう。昭和15年には合資会社笹徳紙器製作所ということで法人化した。
だが日本は、昭和に入り戦争に向かって暗い時代に突入することになる。雅彦も、その時代の荒波にもまれることになる。雅彦自身にも昭和17年に召集令状が届いた。もっとも、この時はレントゲン検診でひっかかり即日帰郷の身となった。
軍隊には行けなかったものの、雅彦は軍需工場の経営ということで国への奉公を志すことになる。三菱の下請けになって戦闘機の部品を造るという本業以外の仕事に乗り出すことになった。
そして敗戦。雅彦は本業回帰を目指すこととなり、昭和23年に紙器製造業に専念するようになった。戦後の高度成長期には取引先の倒産など幾多の試練があったが、雅彦は持ち前の不撓不屈の精神で乗り切った。現在の本社工場を豊明で建てたのは、昭和38年だった。最新鋭の機械がズラリと並んだ理想の工場だった。
雅彦は、昭和49年に社長の座を弟の春夫に譲って、自らは会長になった。だが、その春夫が昭和53年に病死してしまったので、再び社長に復帰した。そして、昭和60年には兄信義の子の平八郎に社長の座を譲った。雅彦は昭和61年に逝去した。戦前戦中戦後という動乱期を乗り切り、会社を伸ばしてきた巨星が、遂に消え去った。享年73歳。
笹徳印刷は、その後で、平八郎から卓繁氏(春夫の長男)へとバトンが引き継がれ、今日に至っている。
印刷業界を取り巻く環境は厳しいが、創業者以来の開拓精神は今でも受け継がれている。愛知県を代表する有力印刷会社として信頼が厚い。
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