この年は、2月15日に第二回臨時総選挙が行われた。政府によるおおがかりな選挙干渉が行われ、流血騒ぎまで起きたが、結果は民党が大勝した。
政府は、前年の12月に衆議院が解散して以来、各県の知事や地方官吏や警察官を総動員して、あからさまな選挙干渉を行った。民党候補者にして、白昼に刀をふりかざすというやり方で、候補者や選挙民を脅迫した。おかげで多数の死者や負傷者を出した。だが、選挙の結果は民党の大勝利だった。自由党、立憲改進党など、政府と距離を置くところが大躍進した。
この結果に慌てたのが政府だった。8月に第2次の伊藤博文内閣が誕生した。閣内には山県有朋、黒田清隆、井上馨、大山巌らの元勲がそろって入閣して「元勲内閣」といわれた。伊藤博文は、この体制のもとに、来る日清戦争に備えた軍備拡張を急いだ。〔参考文献『日本全史(ジャパン・クロニック)』(宇野俊一ほか 講談社)〕
この年は、濃尾地震の余震が続いた。1月にM5という大きな地震があり、9月にはM6という地震も発生した。
そんな中で、大須観音で3月22日に火災が発生した。五重塔や仁王門が焼失した。この時に境内や門前に並んでいた芝居小屋、寄席、料理屋も類焼し、辺り一面が焼け野原になった。
大須観音は、もともと岐阜の羽島にあったが、慶長17年(1612)に徳川家康が現在地への移転を命じた。大須は庶民相手の歓楽街として発展し、料理屋などが立ち並んでいた。そして旭郭という巨大な遊郭もあった。
『碁盤割商家の暮らし』(山本花子 愛知県郷土資料刊行会)は、大須の賑わいぶりを紹介してくれている。
「碁盤割ではないが、かなり南、大須観音の近くの八千久を思い出す。大須は東京の浅草に似て、明治、大正時代の遊び場で、18日(観世音供養の日)には『観音さま』にお詣りしてから、八千久で昼食をして大須の盛り場をぶらつき、大門辺りで、小間物を買って帰る。この八千久は卵豆腐がおいしかった。1日、15日の商売屋の休みで小僧の楽しみは、大須に遊びに行くことである。映画館、見せ物小屋が立ち並ぶ通りを歩き、牛鍋をつつくのが一番であったらしい」〔参考文献『愛知県20世紀の記録 明治・大正編』(愛知県教科書特約供給所)〕
子規は、大学を退学した。根岸に転居し、松山の家族を呼び寄せた。
子規は、日本新聞社に入社した。子規とこの新聞社とのつながりは深く、学生時代に、新聞「日本」で俳句の評論を30回にわたって掲載していた。
それは近代文学の開花によって、俳句という古くさい伝統文芸に、光が当てられた初めての評論であった。
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