岡崎に服部工業という老舗がある。明治18年(1885)の創業だ。創業時は鋳物製造業だったが、今ではまったく異なる事業分野に展開している。このようにビジネスの内容こそ時代とともに変わってきたが、変わっていないのは事業を通じて地域への貢献を目指す創業以来の企業姿勢だ。
服部工業の初代は、服部太郎吉という。その長男も襲名したので、二代目太郎吉もいる。その二代目太郎吉が初代について記した略伝があるので、それを元に初代を紹介しよう。
初代太郎吉は、蔓延元年(1860)に岡崎で生まれた。生家は農家だった。「蔓延元年」という年は幕末にあたり、孝明天皇が皇女和宮に対して、徳川家への降嫁を勅許した。これを受けて和宮は、翌年の文久元年(1861)に江戸にお輿入れした。
初代太郎吉は明治4年に12歳で、鋳物師に修業に入った。その鋳物師は安藤金右衛門という26代以上も続いた鋳物の名門で、岡崎藩の御用達だった。初代太郎吉はそこで仕事を学び、主人の安藤金得から見込まれて、後事を託されたほどだった。
初代太郎吉は明治18年になって、鋳物鋳造業を創業した。26歳だった。当時製造したのは、風呂釜や機械鋳物類だった。初代太郎吉は事業に成功して、規模が大きくなった。そこで明治42年には岡崎駅近くに工場を新設した。それが現在の本社工場である。大正8年(1919)には服部鋳造株式会社を設立した。ピーク時には600人という職工を擁する一大工場になっていたという。
この初代太郎吉は、慈善心に富む熱心な仏教信者で、朝晩の読経を欠かしたことがなかった。大正7年には「服部公益財団」を設立して、慈善事業を始めた。その一つが岡崎工業学校に対する援助だった。岡崎工業学校は、私立として発足したために経営が困難になり、廃校の危機に陥った。そこで初代太郎吉は学校の敷地となる土地を寄付したり、運営費を援助したりした。それが今日の県立岡崎工業高校になっている。
初代太郎吉は、昭和5年(1930)に岡崎の名誉市民として表彰された。そして昭和16年に82歳で天寿を全うした。
服部工業はその後、二代目太郎吉、國男、良男氏と受け継がれていった。現在は、初代のひ孫にあたる良男氏が社長になっている。
現在は、業務用厨房機器の専業メーカーになっている。販売先は、学校給食や外食産業、最近は老人ホームにも広がっている。時代の変化もあり、鋳物鋳造業はリーマンショックの年に中止した。
鋳物製造業から業務用厨房機器のメーカーへ、時代とともに製造品目は変わったが、変わってないのは創業者以来の企業姿勢だ。「人間が健康で幸福になる生活をお手伝いしたい」とし、本業のかたわらで地域への貢献を目指して多彩な事業を行っている。
服部公益財団から独立した学校法人服部学園めぐみ幼稚園は、建物や什器備品に地元産の木材を使うことで、温かみのある施設になっていて、入園希望者が多い。
ヤマサ言語文化学院は、外国人が日本語を学ぶための学校で、多くの外国人がここで学んでいる。
暮らしの学校は文化教室で、暮らし・育児、美術・文学、健康・スポーツ、伝統文化・芸能、料理、手工芸・花などを学ぶことができる。
本社は、岡崎市羽根町字若宮30。
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