明治3年(1970)は、四民平等になり、平民にも苗字の使用が許可された。
「四民平等」の「四民」とは次のことをいっていた。
華族=公卿・大名に与えられた族籍呼称。
士族=旧幕臣・旧藩士に与えられた族籍呼称。
卒=旧足軽以下の下級武士に与えられた族籍呼称。後に一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
平民=農工商に属する庶民に与えられた族籍呼称。
平民、つまり庶民は、嫌でも苗字を名乗らなくてはならなくなったが、いったい何と称したら良いのかと色々首をひねることになった。そこで多く出たのは、生まれ故郷の地名を頭文字とした苗字だった。例えば、地名の頭文字をつけたのでは、伊勢生まれの伊藤さん、近江生まれは近藤さん、遠江生まれなら遠藤さんという感じだ。
その他に農家出身なら田の一字を用いて、中田さん、太田さん、田上さん、田代さん、新田さん、川田さんなど、山里育ちなら山村さん、山中さん、山下さん、山口さん、大山さん、小山さん、中山さんなどとした。
中には、地元の有力者に倣って名字を変える者などがおり、血のつながりとは無関係に同じ集落の家の苗字がみな同じということも起こった。
尾張藩は明治3年(1970)、天守閣で輝いていた金鯱を無用の長物であるとして新政府に献納した。さらに城も取り壊すことを申し出た。
この明治3年は、名古屋城の周囲に並んでいた上級武士団の建物もどんどん破却された。二の丸の建築物を取り壊し、庭園は開墾されて畑になった。
武士達は、自らの邸宅や門、塀を取り壊して、立ち退く者が急増した。尾張藩の指折りの重臣だった渡辺半蔵も屋敷(現・県警本部の南側ブロック)を取り壊して、西加茂郡(現・豊田市)に移住した。
武士たちは、幕末以来の激しいインフレで、生活に窮するものが増え、特に下級武士たちの困窮ぶりは深刻だった。武士達は、先祖伝来の家宝を古道具屋に持ち込んだが、値段が付かなかった。
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