豊田佐吉、豊田喜一郎、奥田正香、神野金之助、岡谷惣助、滝信四郎、瀧定助、大隈栄一、青木鎌太郎、豊島半七、三輪常次郎、蟹江一太郎
いきなり誰もが知っている名古屋財界の重鎮の名前を書き出したが、これは何の名簿だと思われるか? 一柳葬具總本店が過去に手掛けた葬儀の物故者だ。一柳葬具總本店には『創業百年史』がある。昭和52年(1977)のもので、厚さが5センチありズシリと重い。めくってみると過去に手掛けた物故者と葬儀の写真が載っている。
この一柳葬具總本店は、明治10年(1877)の創業。創業者は一柳幾三郎。初代幾三郎は安政2年(1855)に七宝町で生まれた。腕の良い宮大工だったので、棺などの葬具用品の制作を頼まれることが多かった。そこで中区住吉で「一柳商店」という屋号で葬具商を創業した。
葬具用品は昔、村人が総出で制作することが一般的だったので、その制作を請け負い始めた初代はアイデアマンだった。また、棺は担ぎ上げる人が必要だが、その人夫まで手配して一式請け負い始めたのだから、今でいうところのニュービジネスだった。
初代は大正10年(1921)に隠居した。その後を継いだのは、子の随吉(襲名して幾三郎)だ。二代目幾三郎は明治45年に29歳で渡米した。帰国して横浜で撮った写真は、黒の上衣に白のチョッキ、鮫小紋の文様のようなズボンをはいており、いかにもハイカラだ。この二代目は新しいもの好きで、大正時代に日本で初めて霊柩車を導入した。アメリカのビム号という車の改造車だ。それを初めて使用したのは神野金之助の葬儀で、その当時の写真をみると、大勢の人々が霊柩車を取り囲むように見守っている。
この二代目は40歳で早世してしまった。養子として迎え入れた稔がいたが、まだ10代の若さであり、実際には後家となった妻てつが暖簾を守るため粉骨砕身した。
三代目稔は、成人して経営の責任者となるが、励んだのは葬儀の研究だった。葬儀とはいかに執り行われるべきか、とことん研究した。そこで“発案”したのが告別式だった。身内で行った葬儀の後で、一般参列者が焼香するのを“告別式”というが、その告別式という形式を考案したのは、実はこの三代目稔だったのだという。
三代目の後を継いで四代目になったのは、現社長の鎨氏だ。鎨氏は昭和51年に社長に就任した。一柳葬具總本店は現在では、中央斎場(名古屋市千種区千種2丁目)、野並斎場(名古屋市天白区野並3丁目)をもつ。
本社は、名古屋市中区栄3‐14‐11。
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