どんなに立派な老舗でも苦境に陥ることがある。そのピンチを迎えた時こそ、企業は本当の信用が試されるのではなかろうか? 村上化学の再建ヒストリーはその象徴的な事例である。
村上化学は、明治17年(1884)の創業。創業の地は、名古屋市西区押切だった。当時の名古屋はマッチの一大産地になっていて、その原料になる硝石、塩素酸カリ、硫黄などの販売を始めた。
初代の村上友右衛門は、こんなエピソードを社史の中で残している。「明治の頃は薬品類を大八車で運んでいた。市内の東の端まで運ぶ時は、早朝まだ暗いうちに出たものだ。帰ってくると午後3時になっていた」とか。その村上友右衛門は秀才で第一回薬剤師試験の合格者でもあった。
商いは順調に発展し、明治25年には堀川沿いの大船町3丁目(現・名古屋市中村区那古野1‐39)に移転した。日本の化学工業は、日清・日露戦争を経て発展していくことになるが、村上化学は工業薬品の卸売業として地歩を築いた。
大正時代になると、第一次世界大戦が勃発したことによる大戦景気で、国内産業が活況を呈し、村上化学も業績が伸展した。
昭和13年(1938)には、創業者の孫である二代目村上友右衛門が社長に就任した。創業者の子が亡くなってしまったので、まだ旧制大分高商の学生だった孫が急遽後を継ぐことになった。当時はまだ番頭が5、6人で、小僧が5、6人だったという。
この二代目の時代は、戦争の時代でもあった。「戦争中は、会社施設の大半を軍需会社の寮として提供し、社長が寮長になった。朝は4時半から起き、寮生を送り出してから、店の仕事についた。空襲のたびに夜中に2度も3度も起こされ、皆を防空壕に避難させた」という。
戦後になっても、困難な時代は続く。ヤミの商売が横行し、定価の数倍の価格でものを売り付けることが多かった。だが、そこは信用を重んじる老舗のこと、不誠実な商いは一切しなかった。そのことが「村上化学は絶対に信用できる」という信頼につながることになった。
昭和49年には、二代目村上友右衛門が死去したので、弟の村上英男が三代目社長になった。この三代目は社史の中で、こんなことを書き残している。「私が子供の頃は、恵比須講があった。恵比須講は11月3日で、その日は皆が集まり、お経をあげた後に、大盤振る舞いの宴会をした。旧事務所の2階が大座敷で、そこで皆が折り詰めを頂いた。その中には、タイや刺身、卵焼き、栗きんとんなどが入っていて、当時としては大変なご馳走だった」
この名門村上化学に暗雲がさしこめたのは昭和の終わりだった。昭和63年に会社更生法の適用を申請し、破綻に追い込まれた。村上化学の社員は得意先を回り、ひたすら頭を下げ続けた。だが、顧客を回って逆に知ったのは、信用の重みだった。某大手自動車メーカーは「おたくの会社には昭和25年の経営危機に際して、ご協力頂いた経緯があるので、支援させて頂く」といわれたのだ。取引の中止を覚悟のうえでのことだっただけに、涙の出るようなお言葉だったとか。
村上化学はその後、全社員が一丸となって再建に励み、平成13年(2001)には再建を完了した。今日では、化学業界で指折りの企業に発展している。
現在の社長は、有澤泰雄氏で、社員出身のプロパーだ。現在の本社は、名古屋市昭和区鶴舞2‐17‐17。
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