かつて名古屋には「ワシノ機械」という大手工作機械メーカーがあった。残念ながら、企業再編の末「ワシノ」という名前はなくなった。
「鷲野商店」という店は、明治23年(1890)に茶屋町で創業した。創業者は鷲野徳次郎という。鷲野商店は、寄屋(屑物、屑金物類を買い集める商人)を始めたが、徐々に古銅鉄商になり、そして万力やドリルなどを販売する機械工具商へと発展していった。
そして明治末には、二代目の久助の代を迎えた。久助は重工業の発展を背景に、機械工具商として商いを拡大した。大正6年(1917)、個人経営だった「鷲野商店」を「合名会社ワシノ商店」に改組した。そして本社を茶屋町から裏門前町(現・中区上前津1丁目3)に移転した。その店には、立派なショーウインドウがあり、機械工具が陳列された。
三代目になる卯八は傑物で、商社からメーカーに転身させて中興の祖になる人物である。卯八は徳次郎に見込まれて娘婿になった。
卯八は、スチーム・トラップという商品の研究に取り組んだ。このスチーム・トラップというのは、蒸気を送るパイプや機器の中に発生した凝結水を排出する自動弁のことである。当時は輸入品ばかりが幅を効かせていたが、卯八はその国産化に成功した。西区菊井にあった豊田佐吉の試験場を借りて試験を行い、大正6年ごろに独自製品を完成して特許を取得した。
卯八は、このスチーム・トラップを製造するため、合資会社中京ホージング工場を大正9年に設立した。この中京ホージングは、翌大正10年に社名を鷲野製作所と変更した。鷲野製作所は大正時代までは小規模だったが、昭和に入って満州事変が勃発すると、軍需景気に乗って急拡大した。
初代の徳次郎は昭和11(1936)年に亡くなった。二代目の久助も同じ年に亡くなり、ここに卯八が「合名会社ワシノ商店」と「鷲野製作所」という両社の代表者になった。
卯八は昭和12年、「鷲野興業株式会社」を設立した。そして社名を「ワシノ製機商事株式会社」と改めた。従来あった「合名会社ワシノ商店」は「ワシノ製機商事株式会社」が吸収合併した。
「ワシノ製機商事株式会社」は戦時色が深まるとともに、業容は急激に拡張し、昭和14年には株式公開に至った。
米国が日本に工作機械の輸出を禁じたところから、工作機械の完全自給化が課題となり、ワシノには軍部から巨大な注文が舞い込んできた。学徒動員された勤労学生たちも、工場で働いた。戦局が悪化した昭和20年には、軍部から「特ロ2号」のエンジン部品の製造も命じられた。これはB29を撃墜するためのロケット飛行機だった。
だが、敗戦―。
敗戦を迎えた昭和20年10月20日、卯八の経営する「ワシノ製機商事株式会社」には5千人という従業員がいた。卯八はやむなく全員解雇という思い切った方針を打ち出した。もっとも、その直後に1千人を再び雇い入れた。
GHQは軍部に加担したワシノに対して厳しかった。主力工場を賠償指定にしたのだ。これは経営の手枷足枷になった。さらに労働組合が激しい労働攻勢をかけてきた。終戦直後の混乱の中で、ワシノの命運も尽きたかと思われた時、助っ人が現れた。
東海銀行は昭和22年、村瀬伝一郎を「ワシノ製機商事株式会社」に送り込んだ。村瀬は当時43歳で、京都支店長だった俊英だ。東海銀行とワシノは緊密な関係だったから、ワシノの経営危機を座視することができなかった。この村瀬が戦後ワシノを大発展させる立役者になる。
卯八社長は昭和24年に引責辞任に追い込まれた。その後任は村瀬だった。だが、当時はドッジ不況の真っ最中で、会社の資金繰りは悪化し、株価は額面割れだった。 そのワシノを救ったのは朝鮮動乱だった。売上高が戻り、ホッと息を付くことができた。
その後、高度成長時代に入ると、村瀬社長のもとで「ワシノ製機商事株式会社」は工作機械メーカーとして復活を遂げることができた。昭和31年には名駅前の毎日ビルに本社を構えた。昭和35年には「ワシノ機械株式会社」と改称した。昭和41年は社員が1千人以上いた。
だが、第2次オイルショックを迎えて、ワシノ機械の経営は悪化した。そこでライバルに屈する形で、昭和53年にアマダとの業務提携を行い、社名を「アマダワシノ」に変更した。社内では天皇と呼ばれた“村伝”も辞任に追い込まれた。その後、企業再編を繰り返し、現在では社名に「ワシノ」という文字はなくなった。
ワシノ機械という会社は残念ながらなくなってしまったが、その流れをくむ企業はいまでも何社も健在である。
その一社が「ワシノ機器株式会社」だ。ワシノ機器は、昭和35年(1960)にワシノ機械からスチーム・トラップ部門が分離独立して設立された。スチーム・トラップというのは、鷲野卯八が開発して特許を取得した製品だ。設立の場所は現本社である名古屋市南区道全町3丁目36番地だ。社名は「ワシノトラップ株式会社」だったが、昭和42年には「ワシノ機器株式会社」に変更した。
現社長の阪野博安氏は、最初ワシノ機械に入社したが、その後ワシノトラップ株式会社に移った。だが、このスチームトラップという商品は、時代の流れと共に市場がなくなっていった。阪野はスチームトラップに代わるものを開発する必要性に迫られた。
阪野氏は、そこで配管のバルブ関連の製品に着目した。配管の中を流れる液体の、いわばゴミを取る器具で、それはストレーナと呼ばれるものだった。一般の人には目に触れることのないニッチな分野だった。
平成8年(1996)に社長に就任した阪野は、その研究開発を進めた。悪戦苦闘を経て、商品を完成して世に出した。その開発姿勢を感じさせるのは本社工場にあるマルチセンターという実験施設だ。大型の実験装置を備え、ストレーナの圧力損失を検証できる態勢を整えている。ストレーナ内部の様子、スクリーンの脈動など、外から目視、観察できるので、ストレーナ心臓部であるスクリーン部の破損の原因追求ができるという。
このように卯八の開発魂はDNAとなって、ワシノ機器に受け継がれていった。ワシノ機器はニッチな分野を極め、独自の存在になっている。社員80人ではあるが“隠れた優良企業”だ。
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