愛知県内のLPガス業界では有力なニイミ産業は、明治21年(1888)の創業だ。
ニイミ産業の新美家は、元禄時代から続く半田亀崎町の旧家で、代々「次郎八」を襲名していた。江戸時代は、酒造業を営んでいた。その新美家の中興の祖ともいえるのが、五代目次郎八の新美正臣だ。正臣は弘化3年(1846)の生まれ。
正臣は家業のかたわら、持ち船を利用した運送業、酒樽用の樽材を扱う樽丸業、さらには石炭販売業と次々に事業を興した。その中でも石炭商の開業は、後のニイミ産業につながる燃料商だった。そこで石炭商を開業した明治21年をもって、ニイミ産業は創業の年としている。
新美商店が開業した石炭商の仕事の顧客は、製瓦業だった。三河湾は瓦の一大産地だった。薪から石炭へという転換の中で、石炭の需要が伸びていった。
正臣が関与した事業には金融業もあった。明治26年の亀崎銀行の開業に際しては、出資するとともに監査役に就任した。亀崎銀行の姉妹行として、明治28年に衣浦貯金銀行が開業した際には、支配人に就任した。
だが、好事魔多し。正臣は明治43年に64歳で死去した。正臣の後継者は長男正靖で、六代目次郎八を襲名した。正靖は合資会社新美商店を設立して法人化した。三井物産の石炭部の専属販売店としての契約にも成功した。この頃の三井物産は、全国の鉱山を傘下に入れて「黒ダイヤ」と呼ばれた石炭を中心にエネルギー業界を席巻していたので、その販売店になれたことは躍進の原動力になった。本店は亀崎、支店は名古屋だったが、そのほかにも豊橋・浜松・岐阜等にも進出して、中部地区をカバーするまでに至った。
この正靖は昭和14年(1939)に亡くなった。後を継いだのは長男の俊一で、七代目次郎八を襲名した。だが、俊一は病弱で、昭和17年に死去した。当時、日本は徐々に戦時色が強まった。石炭の販売は国家の管理に置かれるようになり、石炭統制会社が愛知県でも設立され、新美商店も強制的に統合され、解散のやむなきに至った。
社長が死に、会社は解散、そして日本は敗戦へ。新美家は相続税に続いて財産税を課され、さらに農地解放で小作地を手放すなど、次々に押し寄せる難問を抱えることになった。
新美家に降りかかった災難は計り知れない。普通なら、ここで終わっても不思議ではないのだが、ここで〝ど根性一代〟のような人物が登場する。俊一の妻幾代だ。幾代は家庭の主婦で家業に関係していなかったが、新美家の再興に乗り出した。
敗戦後、石炭の統制が解除されると、幾代は昭和24年に新生株式会社新美商店を発足させた。社長には、新美吉昭(創業者の孫)が就いたが、吉昭はまだ20歳であり、幾代が盛り立てた。
戦後は、復興期に入り、石炭の需要が一気に拡大した。ニイミ産業も繊維産業への売り込みを図り、飛躍のきっかけをつかんだ。
だが、時代は石炭から石油へという転換期を迎えることになる。吉昭は石油事業に進出した。そして、現会長の治男氏の代になってLPガス事業にも進出した。単なるエネルギー販売に止まらず技術革新にも取り組むのがニイミ産業の得意技だ。昭和30年代には、陶磁器用ガス炉の開発に成功した。
吉昭は昭和50年に亡くなった。その後を継いだのは、治男氏(現会長)だ。そして、その後は良夫氏(現社長)が継いだ。
不撓不屈の精神、時代の変化への対応力、それが今日のニイミ産業にも受け継がれている財産だ。
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