10月、ノルマントン号事件が起きた。
イギリス船籍の貨物船のノルマントン号が、紀州沖で座礁沈没した。その際、船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は、全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助された。ところが日本人乗客25人は、ただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されて溺死した。国内世論は、日本人乗客に対して行われた非人道的行為と、その行為に根ざす人種差別に沸騰した。
翌11月、神戸駐在の在日イギリス領事は、領事裁判権にもとづき神戸領事館内において海難審判をおこない、船長以下に無罪判決を下した。ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた。
松方の緊縮財政政策から経済が立ち直った直接のきっかけは円安だった。当時は欧米諸国が金本位制を採用して銀を放出していたため、銀ばかり保有していた日本の信用が落ち、結果として円相場が下落した。このおかげで輸出が促進されたのである。
松方デフレ政策は、苦しみを伴いながらも成功を収めた。インフレだった頃は銀が退蔵される傾向があったが、デフレ政策により、紙幣と銀との格差が解消されると、銀貨が市場に出回るようになり、金融緩和をもたらした。おかげで低金利を実現することができた。
低金利が実現した明治19年(1886)になると、今度は好景気が到来して、会社設立・株式ブームが起こった。好景気は明治22年頃まで続いた。
「汽車が走るようになったゾー 陸蒸気ダというナー 一ペン見にいこまアーか」
この明治19年(1886)は「名護屋駅(笹島ステンション)」が、開業した記念すべき年であった。
愛知県下での初の鉄道は、明治19年3月に「武豊~熱田」で開通した。4月には「熱田~清洲」で開通した。そして5月には「名護屋駅」が開業した。
その停車場はなまって「笹島ステンション」とか「笹島ステンショ」とも呼ばれた。名護屋駅は、現在の笹島交差点付近にあった。停車場ができる前は、水田と葦の茂る沼地だったという。
この停車場ができてからというもの、わざわざ見学に行く者が多く「汽車見亭」という茶店までできたほどだった。その茶店は、現名古屋駅の東北にあった旧松岡旅館の近辺にあったという。その茶店では、機関車がゴトン、ゴトンと音を立てて走る姿を、ゆっくり見物することができた。
また、笹島駅前には旅館志那忠があり、陸軍大将乃木希典が泊まり「信忠閣」と筆を取った。
開業当初は、停車場の前に人力車が並んでいた。その台数は数百台にも膨れ上がり、駅と市街地を結ぶ重要な足になった。
鉄道はさらに延伸され、明治22年には「新橋~神戸」で開通し、東海道線が全通した。
なお、名古屋駅は、昭和12年(1937)に現在の場所に移転した。〔参考文献『明治・名古屋の顔』(服部鉦太郎 六法出版社)〕
真之はこの頃、悩んでいた。大学予備門に進んだものの、この先どうするかであった。兄好古の給与では弟を大学にやるのは不可能だった。そこで真之は、学費無用のタダの学校を目指す必要があった。タダの学校とは、陸軍士官学校か、海軍士官学校であった。
真之は海軍に入ることを決意した。真之はすぐ士官学校の受験を申し込んだ。すると合格した。
真之が困ったのは、子規にどう伝えるかということだった。ともに文学をしようと誓い合ったのに、今さら軍人になるとは言い出せなかった。そこで置き手紙を書くことにした。それを読んで子規はしばらく呆然とした。
こうして真之は、大学予備門を退学し、海軍兵学校に入校した。兵学校は築地にあった。
佐吉は、東京に想いをはせるようになった。そして遂に父に無断で友人と2人で家を飛び出したのであった。母に無心して懐に入れたお金は、20円だったという。
佐吉は東京に着いても、普通ならするものの上野や浅草などの東京見物をしなかった。それどころか西洋から来た珍しい機械を見たくて、それらしき工場の前を通ると、勝手に入り込んで見物して回った。
この東京見物は、旅費不足で遂に帰郷することになるのだが、友人が反対したにもかかわらず横須賀の造船所を見物しようと出掛けた。当時、横須賀は日本で初の造船所があった。
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