朝鮮半島で大規模な農民の反乱が起きた。東学党の乱である。
連合艦隊にも出撃命令が下り、日清戦争が始まった。装備・訓練にすぐれた日本軍は、指揮・装備の不統一な清国軍を圧倒した。
この頃、『坂の上の雲』の主人公は、次のように活躍した。
真之は、連合艦隊に出撃命令が下ると、「筑紫」航海士になり従軍した。日清両軍が衝突した豊島沖の海戦が、いってみれば初陣だった。
好古は、第二軍の騎兵大隊長として、遼東半島に上陸した。騎兵としての任務は、敵情を偵察することで前進した。その出征中に長女が誕生した。
戦争勃発とともに、名古屋城を拠点に置く陸軍第三師団に対して8月4日に動員命令が出た。
第三師団は、山縣有朋陸軍大将を軍司令官とする第一軍のもとに入った。8月15日に城北練兵場(現・名城公園)で出動編成を整え、師団長桂太郎の閲兵を受けた。8月29日に名古屋を出発した。朝鮮東海岸の元山に上陸したのは9月12日だった。平壌攻囲軍に加わった。
佐吉は再び家を飛び出した。訪ねた先は、豊橋にいる伯父だった。そこで従兄弟にあたる森米治郎、親戚にあたる伊藤久八と親交を結ぶようになった。そんなことで1年ばかり放浪生活することになった。
資金調達の必要性に迫られた佐吉は、比較的容易に開発できる機械の発明を思い付いた。それが糸繰返機だった。糸繰返機は、織布に必要な機械だった。当時の糸繰返機は不便で能率が上がらなかった。これを改良して、便利で能率の上がるものにしたら売れるに違いないと思った。
佐吉は、動力織機の方はひとまず中止して、糸繰返機の考案に没頭した。やっとのことで糸繰返機の考案に成功したものの、その製作を依頼するため、豊橋の指物屋や建具師を訪ね歩いたが、どこでも断られてしまった。ようやく見出したのが豊橋市下地の宅間喜右衛門という指物兼建具師だった。ここで作ってもらい、佐吉は直ちに特許権を出願した。
佐吉は、埼玉県などに、糸繰返機の売り込みにいった。農家の人たちは最初よく呑み込めないためか、さっぱり買ってくれなかった。だが、佐吉は実際に糸繰返機を農家の家で実演してみせて、普及に努めた。実際に使ってみて、その便利さが分かると、農家にすぐ普及していった。
佐吉は、いつまでも伯父の家に居候しているわけにもいかないので、名古屋に出て、糸繰返機の製造販売をしようと思い立った。困ったのは金策だった。今さら親に頼めなかった。佐吉は親戚の一人に頭を下げて無心した。そのなけなしの金を持って、名古屋に出た。名古屋市東区朝日町1‐12(当時の住所)で1戸を借りた。伊藤久八夫妻が2階に住んで、佐吉はもっぱら動力織機の発明に精進した。なお、この場所は現在の錦3‐6の近辺である。
伊藤久八氏は、世間をよく知った人だと言うことで、佐吉は深く信頼していて、佐吉は一切を委任するような形になった。店の名は「豊田代理店伊藤商店」ということにした。
ちょうど日清戦争の始まった年であったが、店はみるみるうちに繁盛した。
佐吉は、この明治27年(1894)6月1日に長男喜一郎が生まれた。生まれた場所は故郷吉津村だった。だが、生後間もなくして、たみは愛想を尽かしたかのように家を出てしまった。このため、喜一郎は祖父母に育てられることになった。
佐吉の創業の地である朝日町1丁目は、現在の興和本社近辺である。次に移った寶町はテレビ塔の南側近辺である。
後に経営の神様と言われる松下幸之助が誕生したのは、この年の11月27日だった。和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現・和歌山市)で、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生した。
幸之助と喜一郎、この偉大な経営者は、同い年だったのだ。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274