第2部 日清・日露戦争時代/1899(明治32年)

その時、名古屋商人は

この年に創業 トマトの発芽を原点とする カゴメ

蟹江一太郎『写真集 愛知百年』(中日新聞社)より
蟹江一太郎 『写真集 愛知百年』
(中日新聞社)より

 カゴメの創業は明治32年(1899)。蟹江一太郎が24歳にして西洋野菜の栽培に着手し、最初のトマトの発芽を見た時を創業としている。

 一太郎は明治8年、東海市名和町の農家の家に生まれた。明治10年代半ばデフレ政策のおかげで米価が下がっていた。農家は米を作れば作るほど安価に陥るという悪循環に陥っていた。一太郎は、この農村の困窮を原体験として育った。

 一太郎は、軍隊に入ったが、除隊する際に上官から「これからの農業は、野菜のような換金作物をもっと作って現金収入を多くするべきだ。野菜といっても、あまり作られていない西洋野菜などが良い」と勧められた。

 一太郎はその気になり、トマト栽培に明け暮れた。そのトマトが採れたのが明治32年だった。だが、実際に食してみると不味かった。臭くて、とても食べられたものではなかった。

 トマト栽培に苦戦する一太郎に助言を与えてくれたのは愛知県農事試験場の技師だった。「アメリカではトマトを加工して食べている」と教えてくれた。そして名古屋の西洋料理店・勝利亭の主人からトマトソースの存在を教えられた。

 一太郎は、トマトソース作りに悪戦苦闘しながら取り組んだ。その結果、ようやくできるようになった。

 明治39年に東海市荒尾町西屋敷で工場を建設し、本格的にトマト加工に着手した。一太郎は、明治43年に開かれた共進会にもトマトソースを出品した。そして褒章状を授与された。

 トマトソース作りに本腰を入れた一太郎だったが、順風満帆で伸びた訳ではない。競争者が次々に現れた。そして大正元年(1912)にはトマトが大豊作となり、相場が下落した。大正3年にはトマトソース作りを断念した。製造を中止したのは、カゴメの歴史の中で、その年だけであり、苦渋に満ちた決断だった。

 だが、栽培農家と一体となってトマト加工業を行う態勢を構築するべきだという信念から、大正3年、 成田源太郎、蟹江友太郎と共同出資し、愛知トマトソース製造を設立した。

 一太郎は、自分自身が信玄袋にトマトソースの見本の瓶を入れて全国の食品問屋に売り込みにいくことにした。筒袖の着物の着流しに、下駄履きという軽装だったという。

 おりから第一次世界大戦が始まり、輸入品が入って来なくなったために、国産品が見直されるようになり、売り上げも伸びていった。「カゴメ」という商標を登録したのは大正6年だった。

 トマトジュースを発売したのは、昭和8年(1933)からで、これが主力商品になって、会社の屋台骨ができあがった。

 一太郎は長寿だった。昭和39年に勲五等双光旭日章叙勲の栄に輝いた。昭和46年に永眠した。生前の功により従五位を追贈された。享年96歳。

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

明治27年 日清戦争勃発
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 服部兼三郎
明治28年 日清戦争勝利
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 中日本氷糖
明治29年 ロシアに対して軍備拡張
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 サカツコーポレーション
この年に創業 馬印
明治30年 金本位制確立
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 山田才吉
明治31年 欧米列強が中国侵略
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 大隈栄一
明治32年 義和団が台頭
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 カゴメ
この年に創業 天野エンザイム
明治33年 清が、欧米列強に敗北
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 松風屋
この年に創業 オチアイネクサス
明治34年 ロシアが満州を占領
明治35年 日英同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 岩田商会
この年に創業 チタカ・インターナショナル・フーズ
この年に創業 東海廣告
明治36年 日露開戦前夜。大須の遊郭で大火
明治37年 日露戦争始まる
明治38年 日本海海戦で勝利

第3部 明治後期

第4部 「旧町名」を語りながら