第2部 日清・日露戦争時代/1896(明治29年)

その時、名古屋商人は

この年に創業 チョークから始まった 馬印

 黒板やチョークの老舗メーカー・馬印は、明治29年(1896)の創業だ。

 創業者は加藤杉太郎で、明治3年生まれ。当時の日本は、学制が公布され、近代的な教育制度を整備し始めていた。東京に開校した東京高等師範学校(後の筑波大学)は、小学校における教授方法を学習するため、アメリカ人教師を招いた。アメリカ人教師はブラックボードという板を使いながら授業を行った。

 ブラックボードは、その後「黒板」と直訳された。日本で黒板を使った授業が全国的に広がった。そのため明治20年代になると黒板やチョークの需要が高まった。

 杉太郎は、チョークという商品の将来性に着目して、大阪へ修業に行った。帰ってきたのは明治29年で、26歳だった。そして、その年の9月に加藤白墨製造所を創立した。創業の地は名古屋市中区池田町(現・中区栄5丁目)だ。

 事業を軌道に乗せた杉太郎だが、50代に入ると神経痛で悩まされるようになった。そこで子の陽之助にバトンを渡した。昭和8年(1933)のことだった。陽之助は内地販売のほかに輸出にも力を入れた。満州や東南アジアに向けてチョークや、黒板を輸出した。だが、日中戦争が勃発し、その後太平洋戦争に突入して、戦争一色になってしまった。同社の工場も、昭和20年3月の空襲で焼失した。

 この二代目陽之助は、不撓不屈の精神の持ち主だった。早くも昭和22年には名古屋市中川区東出町(現・中川区山王3丁目)で再建し、チョークの製造を再開した。だが、好事魔多し。陽之助は昭和46年に死去してしまった。

 三代目社長に就任したのは、現会長の銑一氏だ。銑一氏は社長就任とともに、当時普及し始めていたホワイトボードの製造も開始した。これは発展の大きな転機になった。銑一氏は、昭和48年に社名を「株式会社馬印」に変更した。昭和51年には小牧工場を建設して、生産規模を拡大した。この銑一氏は平成3年(1991)に名古屋祭りで家康役を務めた。

 現社長の泰稔氏は、創業者のひ孫にあたる。平成14年に社長交代した。

 本社は、名古屋市中川区山王3‐16‐27。

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序文

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

明治27年 日清戦争勃発
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 服部兼三郎
明治28年 日清戦争勝利
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 中日本氷糖
明治29年 ロシアに対して軍備拡張
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 サカツコーポレーション
この年に創業 馬印
明治30年 金本位制確立
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 山田才吉
明治31年 欧米列強が中国侵略
その時、名古屋商人は・・・
明治名古屋を彩る どえりゃー商人 大隈栄一
明治32年 義和団が台頭
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 カゴメ
この年に創業 天野エンザイム
明治33年 清が、欧米列強に敗北
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 松風屋
この年に創業 オチアイネクサス
明治34年 ロシアが満州を占領
明治35年 日英同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
この年に創業 岩田商会
この年に創業 チタカ・インターナショナル・フーズ
この年に創業 東海廣告
明治36年 日露開戦前夜。大須の遊郭で大火
明治37年 日露戦争始まる
明治38年 日本海海戦で勝利

第3部 明治後期

第4部 「旧町名」を語りながら