御三家筆頭の尾張藩都・名古屋の人口は、慶応元年(1865)の時に7万3千人だった。その人口は、明治時代になって次のように増えた。
人口(戸数)
明治8年 10万9千人(3万2千軒)
明治19年 12万9千人(3万7千軒)
明治22年 15万7千人(4万軒)
また、製造業に従事していた人の職種は、どうなっていたのだろうか? 明治17年の調査(陸軍省の徴発物件一覧表)によれば、次のようになっている。
木工(731人)、指物職(331人)、飾職(259人)、木挽職(245人)、縫工(215人)、桶工(203人)、染職(172人)、鍛工(166人)、革工(160人)、泥工(114人)、彫刻職(109人)、建具職(103人)、雑職(94人)、石工(53人)、車工(50人)、洗濯人(44人)、屋根職(44人)、杣職(伐採・造材に従事する仕事 31人)、蝋燭工(30人)、竹工(29人)、船工(12人)、靴工(9人)、棒削職(8人)、農具職(4人)、鞍工(4人)、茅屋根職(1人)
注目したいのは木材関連の職人の多さである。木工、木挽職、桶工、建具職などに関連する職人が大勢いた。この職人の多さは、木曽の檜を持っていた尾張藩ならではだった。材木を伐採して、堀川を経由して、城下町で仏壇などの製品にするという産業が江戸時代から発展していた。
なぜ木材産業は名古屋で発展したのだろうか?
実は徳川家康のおかげだった。家康は、可愛がっていた九男義直を尾張藩主に据えるとともに、木曽の山を版図として与えた。木曽の山は、大変貴重なものだったから、その木材を有効利用する産業が芽生えて発展することになった。
明治時代になると、その技を生かして、馬車や汽車の製造につながり、ひいては現代の車や新幹線の製造にもつながるのである。中部地区は製造業のメッカといわれるが、その要因の一つは家康まで関係するのである。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
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