官軍は金がなかった。そこで官軍は、さっそく金集めに走った。まず京都と大阪の豪商を二条城(新政府の役所になっていた)に集め、用立てろと迫った。
名古屋商人も、この軍資金を強いられた。尾張藩は、この青松葉事件の直後である2月に、調達金を出すように名古屋商人に再び命じた。調達金とは、一応金利が付いて戻ってくる建前にはなっているものの、実際には戻ってこないので、徴用のようなものだった。
調達金は幕末から明治初期にかけて何度も何度も取られ続けたので、名古屋商人はその負担に苦しみ続けた。
尾張藩は慶応4年(1868)の初め、御用達商人に総額で9万両もの拠出を命じた。度重なる調達金の徴収に対して、さすがの商人たちも困り果て、御用達連名で藩庁に減額を懇願したところ、6万両になった。
この資金提供に応じた人は「御用達名前帳」に名前が載っている。厳密な資産調査が行われた上での格付けなので、それを見れば、慶応4年、つまり明治元年(1868)の時点における尾張藩御用達の商人のランクが分かる。総勢353人で、三家衆、除地衆、十人衆、御勝手御用達、御勝手御用達次座、御勝手御用達格、御勝手御用達格次座、町奉行御用達、町奉行御用達格、町奉行御用達格次座などに分けて格付けされている。ここに上位陣の顔ぶれを紹介しよう。
三家衆=信濃屋の関戸哲太郎、いとう呉服店の伊藤次郎左衛門(後の松坂屋)、内海屋の内田鋼太郎
除地衆=皆川屋の熊谷庄蔵、笹屋の岡谷惣助(後の岡谷鋼機)、十一屋の小出庄兵衛(後の丸栄)、伊藤屋の伊藤忠左衛門(四間道にある。川伊藤と呼ばれる。旧東海銀行の元頭取・伊藤喜一郎氏はこの出身)、松前屋の岡田小八郎、大丸屋の下村正之助(現・大丸松坂屋百貨店)
十人衆=萱津屋の近藤伊右衛門、佐野屋の中村はる、吹原屋の吹原九郎三郎、菱屋の渡辺喜兵衛、知多屋の青木新四郎(後の名エン)、材木屋の鈴木惣兵衛(後の材惣木材)、白木屋の岡田徳右衛門、中島屋の加藤彦三郎、粕屋の安藤善祐、多立屋の牧野作兵衛、美濃屋の武山勘七
彼らの資産は、十人衆で5千両、町奉行御用達で3千両と評価されたのだから、財力の豊かさが想像されるだろう。〔参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)〕
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