明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される大久保利通は、明治11年(1878)5月14日に、東京府麹町紀尾井町清水谷(紀尾井坂)で不平士族によって暗殺された。享年49歳。
西南戦争は、戦費を不兌換紙幣の発行によって賄ったために、紙幣の発行量が急増し、戦後にインフレを招いた。そのおかげで旧士族の生活は窮地に追い込まれた。
尾張藩の旧藩士は、秩禄処分によって窮乏した。下級士族は少額の公債しかもらえなかったので、困窮を極めた。公債はインフレによって紙切れ同然となり、商業に転ずる者もいたが、いわゆる「士族の商法」によって没落する者も続出した。このように明治10年代は、士族の没落が決定的になった時期だった。
旧藩士たちは「職を与えよ。しからずんば米をよこせ」という復禄誓願運動を始め、たちまち9千人以上の署名を集めた。明治11年(1878)には、大蔵省の官僚であった松方正義が京都から東京に戻るのを聞き付け、途中で待ち伏せして、松方に詰め寄って復禄を迫ったこともあった。
一方、大名などの華族は、莫大な金額の公債を与えられ、利子のみで生活できるほどになった。徳川慶勝も秩禄処分によって莫大な財産を得て、一躍富豪になった。だが、慶勝は、旧藩士の窮状に心を砕いていた。そこで、徳川家の私財を投げ打って、北海道への移住を働きかけた。
徳川家が旧家臣団の北海道移住に対して支出した額は、明治17年までに支出された分だけで、延べ12万円の巨額になるという。かつての家臣団に対して多額を出費し、何とか困窮状態から脱却させようとする慶勝の旧藩主としての強い責任感がうかがえる。
慶勝は、明治10年に入植適地調査のため、調査団を派遣した。北海道に渡った調査団は、各地を調査し、「遊楽部」(現・八雲町)を適地と選定して帰国した。
慶勝は明治12年、開墾試験場をもって「八雲」と称する一村の独立を開拓使に出願した。明治14年に開墾試験場だけでなく、山越内村の支郷であった遊楽部と黒岩を合わせて分離独立が認められ、ここに胆振国山越郡下「八雲村」の誕生をみた。
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