明治時代は、コレラが大流行し、患者数が16万人、うち死者が10万人にのぼった。戦死者は、日清戦争が1千人、日露戦争が8万8千人だったので、それ以上の犠牲者を出したのは、実は病気だった。
コレラは、幕末でも大流行したが、明治12年に愛媛で発生した。それは大阪・堺・京都へと伝わり、たちまち全国に蔓延した。
明治時代の名古屋は、まず天然痘が流行した。ついでコレラ、チフス、赤痢が加わり、そこに一時期はしかも流行して、人々を恐怖に陥れた。
まず天然痘は、明治12年(1879)に愛知県下で161人が感染し、うち68人が亡くなった。愛知県は、天然痘の予防のため、種痘を奨励した。
コレラは、明治12年7月に愛知郡(現・尾張地方)でも発生した。コレラの発生により家族の者の外出が差し止められたため、感染しても報告をしない者が少なくなかった。このような事情から、コレラが爆発的に流行した。
真之と子規は、ともに松山中学校に入学した。真之は、子供達を集めて花火を製造した。それは大問題になった。
警察は、首謀者と目された真之の家を訪れ、厳重に説諭するように申し入れた。平素おとなしい母の貞は、自分も死ぬからお前も、と言って真之に短刀を突き付けた。
佐吉は13歳から、父の大工の仕事を手伝うようになった。佐吉自身も、大工になることを当然だと思っていたのか、父の助手として努めた。
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