子規はこの頃、ベースボールに夢中になっていた。喀血してやめるまでやっていた。
ベースボールは、日本に入った当初は「玉遊び」とか「打球鬼ごっこ」などと訳されたが、定着しなかった。「野球」という訳を誰が初めて行ったのかは諸説あるが「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」と日本語に訳したのは子規だといわれている。
『尾陽商工便覧』という本がある。川崎源太郎が明治21年(1888)に著したものだ。それを見ると、当時の商家の様子が偲ばれて面白い。洋服屋、時計商、洋酒販売屋など色々な店の様子が描かれている。江戸時代から変わらない店もあれば、牛肉屋など文明開化の匂いのする店もある。この絵は、守口漬を考案した山田才吉が若宮神社西門のすぐ北隣で開いていた喜多福という店である。
このように明治20年代初期の名古屋は、江戸時代の風情をたぶんに残していた。その当時は、東京や大阪では、官営工場の払い下げが進んでいたが、名古屋商人は中央政治との結び付きを意図的に敬遠する雰囲気が強かったために、政商になることがなく、それだけ発展から取り残された。
この頃の名古屋商人の財産を覗いてみよう。名古屋富豪録(肥田左右吉、明治20年)は、次のように格付けしている。
別等 本願寺(下茶屋町)、関戸守彦(堀詰町)、神野金之助(鉄砲町)、武山勘七(東万町)
壱等 名古屋銀行(伝馬町)、第百三十四銀行(船入町)、伊藤次郎左衛門(茶屋町)、見田七右衛門(船入町)、第十一銀行(茶屋町)、三井銀行(伝馬町)、伊藤忠左衛門(大舟町)、滝兵右衛門(本町)、中村与右衛門(萱屋町)、奥田徳右衛門(伊勢町)、岡谷惣助(鉄砲町)、東松そう(船入町)
弐等 祖父江重兵衛、瀧定助、春日井丈右衛門、横井半三郎、八木平兵衛、小出庄兵衛ら。
このようにみてみると、昔ながらの商いを相変わらず行っている尾張藩譜代の御用達商人が上位を占めているのが分かる。東西の財界はすでに産業資本(工業・鉱業)に転化し始めているのと比較すれば、やはり動きが鈍い。
だが、尾張藩以来の豪商の中にも、新時代に対応した商いを積極的に始めようとする動きも出ていた。特に伊藤次郎左衛門や岡谷惣助などは積極的だった。
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