名古屋駅で売られる駅弁の折箱の製造販売で、戦前に大手だったのが折兼だ。折兼は明治20年(1887)、伊藤兼次郎が駅弁用折箱の製造販売を始めたのが始まり。屋号の「折兼」は、折り箱の「折」と、兼次郎の「兼」を組み合わせたもの。創業の地は現本社所在地だ。
日露戦争の際には、柳橋にあった軍用駅から出征する兵士の数が多過ぎて弁当箱の生産が間に合わず、食べ終わった兵士の弁当を洗っては詰め直したというエピソードも。
このように大きな商いをしていた折兼だが、当時の経営内容は苦しかったらしい。二代目の清一は愛知一中に進学したが、家業が破産寸前になり、中退に追い込まれたほどであった。
創業者の兼次郎は、経営の苦しさから、大正11年(1922)、当時名古屋にあった尾三農工銀行で家屋敷を担保にして2700円を借り入れた。この借金は昭和19年(1944)に完済したが、二代目清一は当時の苦しさを子孫に伝えるために家訓を残した。
その家訓は「無事完済ノ今日、コノ書類モ不要ナルモ『亡き父』ガ如何ニ生活苦ト闘ヒ多クノ子女ノ育英ニ心血ヲ傾ケコノ土地ト家ヲ獲シヤ! 子孫ニ至ル迄之書ヲ保存致シ、肝銘奮起セヨ 昭和十九年八月二十七日 伊藤兼次郎 嗣子 清一」と書かれていて、今日でも大事に飾ってある。
折兼は今日では、食品スーパーでよく見かけるトレーの大手問屋として著名だが、その基盤を作ったのは三代目の進康だ。大学を昭和43年に卒業すると同時に折兼に入社した。当時の従業員は23人で、家内工業の域を出なかった。
木製の折箱は昭和30年頃までは大きな需要があった。その後化学産業が発展するとともに樹脂製品に切り替わっていった。進康はその時代を先取りし、取扱商品を木製から樹脂へと転換していった。折兼の発展の原動力になったのは、スーパーマーケットの台頭だった。セルフ販売方式の浸透により、トレー容器の需要が一気に拡大した。また容器だけでなく、様々な商材を扱うようになった。例えばスーパーのバックヤードで使用する包装機などだ。
平成23年(2011)8月にトップを交代し、伊藤進康氏が会長に、子の崇雄氏が社長になった。
本社は、名古屋市西区菊井2‐6‐16。
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