明治9年(1876)は、政府が華士族に対して、秩禄の支給を停止して、これを金録公債の交付に切り替えた。同じ年に帯刀も禁じられたので、士族にとっては最後の止めを刺されたのも同然だった。
明治8年、明治政府は米高によって給する禄を各地方の3カ年の平均相場に換算して公債の形で支給した。
明治維新後、士族が容易に転職しやすかったのは、これまでの仕事とつながりの深い官吏、軍人、教職員、巡査等であったが、それらの職はもともと人数が限られていたので、大半は失業状態に陥った。
この士族の没落は、それまでふんぞり返っていた支配階級だけに、庶民にとっては胸のすく思いだったようだ。士族を揶揄した、こんな川柳が残っている。
「腐っても鯛の気で居る馬鹿士族」
「今の武士食わず内職ほそ楊子」
「武士のふの字の続いた果が車夫」
この秩禄処分は、名古屋藩でももちろん行われた。
廃藩置県により、藩の収入の1割は藩知事のものとされたので、残りが家臣の家禄になった。名古屋藩の家禄の支給状況は、記録に残っている。家禄を受けていた人数は、明治8年(1875)の時は6千人で、明治4年と比較すると1千500人ぐらい減っている。その6千人が受けていた家禄は、年間で10石未満が73%占めていて、大半が下級武士だったことが分かる。「石」とは米の量を表す単位で、人間が1年間で食する量である。
名古屋藩は、旧藩士の救済のために、授産事業を熱心に行った。明治10年には、東外堀町に桑園、白壁町に茶園、七曲町(現・中区東桜1丁目)に養蚕場、布池町に牧畜場、久屋町に織工場が設置された。
この年、好古は愛知県立名古屋師範学校附属小学校に赴任することになった。その俸禄は、月給30円だった。真之が誕生した時に、好古は父に向かって「お豆腐ほどお金をこしらえてあげるがな」といったが、それが実現したぐらいに高給だったという。
『坂の上の雲』の中では、名古屋に関する記載はわずかだが、次のように描かれている。
――県立師範学校はどこですら。
ときくと、医学校とならんで名古屋における最高学府であるだけにすぐわかった。その附属小学校が好古のあたらしい職場だった。
この名古屋師範学校附属小学校は、熱田区宮宿「南部赤本陣」跡に作られた義校「千竈学校」で、好古は校長として赴任した。その学校跡地は、あつた蓬莱軒(名古屋市熱田区神戸町503)の駐車場付近である。義校とは民間の寄付金で設立された初等学校で学制制定後は小学校になった。
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