「砂糖」という素材だけに一般にはあまり知られていないが、砂糖の問屋として地元でナンバー1、全国でも指折りの存在が福谷だ。
豊橋の度量衡商だった福谷家の支配人だった福谷藤七が独立を許され、明治18年(1885)に38歳で独立したのが始まりだ。藤七は、頑強な体質で、性格は勤倹貯蓄、努力勉強をモットーにしたような人で、酒も煙草も嗜まなかった。稼いだ金で不動産を買うのが唯一の楽しみだった。昭和9年(1934)に87歳という天寿をまっとうした。
その藤七の長男藤太良、次男栄七は、中学校を卒業して家業に従事した。事業は順調に発展して従業員も雇い入れ、やがて豊橋市中第一の糖粉商となった。明治40年代には店も拡張し、表は萱町に面し、裏は上伝馬通りに面し、内部には卸部、小売部、倉庫数棟、家族・従業員の住まい、土蔵、さらには焚黒糖の工場まであった。この店は、空襲で焼夷弾の直撃を受け、すべて灰燼に帰した。現在では、松葉公園という豊橋市民の憩いの場となっている。
大正時代に入ると、第一次世界大戦による好景気を迎えたものの、その後に相場の大暴落となった。福谷は損失を最小限で切り抜けることができた結果、資本の蓄積を果たして飛躍をなすべき素地ができ、大正5年(1916)、名古屋支店を設立して名古屋に進出した。
さらに昭和4年、合名会社を改め、資本金50万円で株式会社福谷商店を設立し、名古屋を本店とした。初代社長には福谷藤太良が、専務取締役には栄七と藤一郎(藤太良の長男)が就任した。
名古屋に進出するにあたり、最も功績があったのは、栄七だった。性格は大胆にして細心、商機を見るにすこぶる敏で、商魂たくましい商人タイプ。福谷商店は、藤七が基礎を築き、栄七がこれに花を咲かせた。
だが、福谷も太平洋戦争という惨禍に見舞われることになる。戦争中に砂糖は全面統制となり切符による配給となった。砂糖の商社は、農水省の指導により砂糖統制株式会社に事実上、統合させられた。福谷も事実上の休業に追い込まれた。
戦争が終わり、名古屋が焼け野原になった。砂糖は、戦後も全面統制のままであったが、昭和24年に国内産含蜜糖だけを統制から解除する法律ができ、自由化の第一歩を踏み出した。それまで開店休業を余儀なくされていた福谷にとって、これはまさしく干天の慈雨を得たようなものだった。
戦後の復興を目指して立ち上がったのが藤太良の長男藤一郎だ。藤一郎は、焼け残った白壁町の自宅を売り払って資金を作り、店の営業を再開した。まさにお家再興の不退転の決意だった。藤一郎はまさに中興の祖となって、戦後の福谷の基礎を築いた。
福谷はその後、藤一郎から長男七郎へと引き継がれ、現在は七郎の長男藤七郎氏が七代目社長になっている。本社は、名古屋市中区栄一丁目9‐16。砂糖問屋の業界では、全国でも指折りだ。
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