東郷製作所という社名を聞くと、誰しも自動車用ばねの大手メーカーを想像するだろう。その創業の年次は、明治14年(1881)まで遡る。当初は鋤・鍬・備中などといった農機具の製造だった。
創業者の名前は、相羽錠右衛門。錠右衛門は天保8年(1837)の生まれ。家督を嗣いでから、知多郡の金山村小倉の鍛冶職として活躍し、鳴海などへも出張していた。当時は現常滑付近に鍛冶職人が多く在住していて、尾張近郊はもとより、三河、美濃、伊那あたりまで出かけて農機具の製造・修理にあたる“出鍛冶”がいたという。
その〝出鍛冶〟の一人だった錠右衛門は、明治14年の時に、愛知郡春木村(現・東郷町)に移住して、農機具の製造を始めた。これが東郷製作所の始まりだ。錠右衛門は職人気質で気が乗じれば仕事に集中するが、一方では芝居に趣味を持ち、観劇のみならず、自らも田舎芝居に興じたほどの凝りようだった。明治28年に亡くなったが、趣味豊かな人生だった。錠右衛門は次女の婿養子として留三郎を迎え入れ、留三郎が二代目になった。
その留三郎の次男が義一で、後に東郷製作所を世界的なメーカーに飛躍させる経営者になる。義一は明治30年の生まれで、高等小学校を修了して、14歳の時に家業に従事した。当時の事業規模は4、5人程度の鍛冶屋だった。
義一は、発明家としての素質に恵まれていた。父を助けて農機具の製造に就くなかにあって、改良工夫に向ける目も熱く、熱心に取り組んでいった。そして同業者より一歩先んじて新製品を開発しようとした。
この努力が実ったのが大正10年(1921)に完成した歯車伝導式脱穀機の開発だった。さっそく特許も申請した。そして屋号も「トーゴー農具製作所」に改め、トーゴー式脱穀機の製造販売に本腰を入れた。
義一の商品開発力の旺盛さは、目を見張るものがある。昭和5年(1930)には、「文化鍬」というものを開発した。従来の鍬は、裏側に土が付着して能率が低かった。そこで、くぼみを作ることで土が付着しないようにした鍬だった。この「文化鍬」は、昭和6年(1931)には大日本連合青年団の全国表彰として、団長より「産業賞」を授与された。
だが、時代はこの頃から急に戦時色を強めることになる。義一は、国の情勢を鑑みて、軍需産業にも進出することとした。昭和18年から、自動車用ばねの製造を開始した。
敗戦を迎えた直後の昭和20年9月、トヨタ自動車工業との取引が始まった。昭和22年には株式会社東郷製作所を設立した。この敗戦後の経済環境は最悪だった。昭和24年にアメリカのドッジが来日して経済安定化対策を実施したが、それは深刻な不況をもたらした。トヨタ自動車は経営不振に陥り、喜一郎社長が引責辞任に追い込まれた。再建役として石田退三が登場した。このドッジインフレは、トヨタ自動車の協力工場だった東郷製作所を直撃した。だが、義一は1人の解雇者も出さなかった。
義一は、昭和44年に亡くなった。東郷製作所の現社長の相羽繁生氏は、義一の孫にあたる。
本社は、愛知県愛知郡東郷町大字春木字蛭池1。
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