明治7年(1874)は、台湾出兵が行われた。戦争の発端は、船の遭難だった。明治4年に宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が遭難した。乗員は漂流し、台湾に漂着した。そこで乗員は先住民に殺害された。日本は清に対して事件の賠償などを求めたが、清国政府は拒否した。そのために日本は台湾出兵を行い制圧した。
台湾出兵は、沖縄の日本帰属が確定するという結果をもたらした。清は日本軍の出兵を保民の義挙と認め、 遭難民に対する見舞金、戦費賠償金を日本側に支払い、それと引き換えに、日本は征討軍を撤退させた。また、清が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認された。
だが、琉球の帰属問題が日清間で最終的に解決するのは、日清戦争における日本の勝利を待たなければならなかった。日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。
幕末から明治初年に生まれた『坂の上の雲』の主人公たちが、このあたりから登場し始める。秋山好古はこの頃、銭湯の釜焚きをして家計を助けた。仮にも士族だった師弟が風呂屋の三助になったことは、狭い松山の街では随分話題になったようだ。
三助になった好古だが、ある日、大阪にタダで入れる学校ができたという報せを聞いた。好古はさっそく県庁の学務課に問い合わせにいったが、応対してくれた担当者は父久敬だった。
名古屋商工会議所の第二代会頭に、山本新治郎がいた。会頭を明治18年(1885)2月から明治21年3月まで務めた。「京口屋」という屋号の碁盤割商家で、山本九八郎家といった。酒問屋だった。場所は伝馬町5丁目で、現在の中区錦2丁目2番地(名古屋センタービルの所、日銀名古屋支店の東側のブロック)である。その子孫が著した本が『碁盤割商家の暮らし』(山本花子 愛知県郷土資料刊行会)だ。その中で、名古屋商人を偲ばせる記述があるので、紹介しよう。
商家のお正月を次のように伝えている。
「元旦、朝早く起きて、表に白と浅葱の横反の幕を張り、出入り口は紫色の房の下がった組み紐で結ぶ。仕立ておろしの衣服を着て、若水を汲み、屠蘇を浸し、お銚子に入れて酒を注ぐ。仏さまには鏡餅のほか、霊供膳に雑煮、精進のおせち料理を供える。下の座敷には伯父の肖像の描かれた軸を掛け、本膳に雑煮、おせち料理を盛りお供えする。」
また恵比須講について触れている。恵比須講とは、恵比須を祭る行事である。商売繁盛を祈願して、親類・知人を招いて宴を開いた。
「恵比須講こそは商家の大切な行事である。これは商売繁盛、商家の神、恵比寿さまへの感謝、店員への慰安などが含まれていると思う。ごく最近ではあまり聞かなくなったが、商店街では恵比須講謝恩大売り出しなどを謳い文句に、秋11月中旬には鳴り物入りで、大々的に宣伝したものである。11月20日のこの日は京口屋の店の方のお祝いという形で商売を休み、きれいに掃除をして、熱田の出入りの肴屋が出張し、料理方を受けもつのである。店の方の座敷に恵比寿さまの軸を掛け、酒、肴、その日の膳分をお供えして、店の人々、本家の人々、私たち、召使一同が順々にお詣りして祝いの膳に付く。」
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