岡崎の機械工具商・峰澤鋼機といえば、トヨタグループとの深いかかわりがある有力企業として知られている。トヨタ自動車は、昭和12年(1937)の設立だが、その新工場の起工式に使われた鍬、鎌、シャベルを納品したのが峰澤鋼機だった。
トヨタ自動車は戦後に経営危機を迎えた。その当時は支払いが株券で行われたが、全く元本割れの株価だったので、多くの取引先は取引を中止してしまった。そうした中でも、同社は取引を継続したことが、その後の発展につながった。
話がトヨタ自動車との関係で始まったが、同社の歴史はトヨタ自動車よりもウンと長くて、創業は明治元年(1868)だ。日名村(現・岡崎市)で農業をしていた峰澤栄吉が創業した。栄吉は、文政元年(1818)生まれだから明治元年で50歳であり、当時としては高齢で船出したわけだ。明治維新で士農工商という身分制がなくなったので、新しい天地を求めたのだろう。だが、栄吉は明治8年に58歳で亡くなってしまった。
その後を継いだのは、久吉だ。久吉は、天保12年(1841)生まれだから、明治8年に35歳で二代目になった。久吉は明治40年に家督を譲り、大正2年(1913)に72歳で亡くなった。
三代目になったのは、久吉の子の重治だ。重治は明治16年生まれだから、24歳でバトンを受け継いだ。この重治は商才があった。家庭金物と農機具の卸売りを推し進め、三河だけでなく、岐阜や長野、静岡まで足を延ばし、商圏を拡大した。
この重治の妻は「のゑ」という名前で、この人がやり手だった。夫は得意先回りで留守がちだったので、商品の仕入れから販売まですべてを指示し、20人近い店員を、時には大声で指図することもあった。そのため後年には〝岡崎の三女傑〟と言われるまでになった。
重治は晩年には家の新築に没頭した。この家は、2階建てで、1階は店舗、2階は倉庫と店員部屋、夫妻の住居であった。外観は、細かい模様の銅板を張った神殿造りであったので、遠方からも見学者が来たほどだった。この建物は戦災に遭わずに残ったが、残念ながら昭和45年に取り壊してしまった。
重治は昭和8年まで当主の座にいたが、その後は養子の佳行に譲った。そして昭和19年に亡くなった。佳行は、重治とのゑの娘である「志づ」と結婚して、峰澤家に入った。
佳行は、昭和8年から亡くなる昭和48年まで当主の座にいた。昭和10年には合資会社峰澤商店に改組した。佳行は、戦中の辛酸を舐めながら、戦後の発展をもたらした。特にトヨタ自動車との取引を始めたことが、後の飛躍につながった。
だが、一番の功労者は志づだったかもしれない。志づは、母ののゑに似て、やり手の商売人だった。佳行は、岡崎の市議会議員を務めるなど、社業にとどまらずに幅広い活動をした。志づは、佳行を支えながら、実際に家業を取り仕切った。
佳行と志づとの間には長男がいたが、交通事故で亡くなってしまった。娘節子はすでに忠雄と結婚していたが、そんな訳で急遽、忠雄に峰澤家に養子に入ってもらい、後を継いだ。こんな訳で、峰澤家は、佳行・忠雄と養子が二代続いた。
忠雄は大正14年(1925)生まれだから、昭和48年の時にすでに48歳になっていた。本人も全く予想もしていない社長就任だった。だが、その忠雄も昭和62年にガンで帰らぬ人になってしまった。62歳という若さだった。
後に残されたのは、妻節子だった。節子にしてみれば、自分が社長になろうとは予想だにしなかったことだろう。だが、夫に先立たれて残された女が頑張るのが〝峰澤家の繰り返された歴史〟だった。節子も社業に励み、老舗の暖簾を守りきった。
そして現社長の彰宏氏が登場する。彰宏氏は平成5年に30歳という若さで社長に就任した。彰宏が社長に就任した当時は、すでに日本経済が下降線に入っていた。そして最近はリーマンショックも経験した。だが、トヨタグループとの信頼関係も厚く、業績を着実に伸ばした。おかげで業界でも指折りの地位は揺るがない。
本社は、岡崎市井田南町4‐5。
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