鈴木政吉という人は、天職ともいえる好きな仕事を見出し、没頭するまで打ち込んで頂点を極めるまでになった。明治の名古屋の3大発明家の一人と言われる。
鈴木政吉は、安政6年(1859)、名古屋市東区宮出町に生まれた。この宮出町という町名は現在ないが、東新町の近辺のようだ。父正春は尾張藩士だったが、乏しい家禄だけで生計をたてるのは困難で、細工好きの腕を琴・三味線作りの内職に役立て、どうにか家族6人を養う身の上だった。
政吉は、8歳から3年ばかり漢学を習った後、様々な勉学に励んだが、時代の流れとともに維新の政変と貧乏とにさいなまれ、就学のすべを失う。同じく家禄も奪われ、内職を家業にくら替えして、武士の商法に打って出た父親の手助けをすることになる。
家業手伝いの2年が過ぎた14歳に政吉は、従姉の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商・飛騨屋の奉公人になるために上京した。政吉は、3年の奉公を終えた後で帰郷し、家業の三味線造りの下職に従事した。政吉は早起遅寝で奮闘し、翌年には父から一家をまかされるようになったが、大工の半分くらいしか稼げぬ苦境が続いた。
そんな苦境の中、政吉は高給が望める音楽教師になることを思うようになった。父の勧めで長年稽古していた長唄の素養を生かせば教師になることが可能だと聞き、稽古仲間のつてで、愛知県師範学校の音楽教師恒川鐐之助の門を叩いた。
入門後ほどなくして、運命の出会いをすることになる。政吉は同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せられ、たちまちそれに魅了された。これが人生を決めたバイオリンとの出会いだった。政吉は、一夜借用し、徹夜でそれを模写し、一週間で仕上げ、2月にその初号が完成して、苦心のバイオリン初作を恒川に見せた。
明治23年(1890)、生家から東門前町(東新町の近く)の借家に仕事場を移し、さらにその翌年大枚300円を投じて向かいの住宅を買い入れ、これを工場にし生産、研究を続けた。
その結果、第三回内国勧業博の有功賞(明治23年)を皮切りに、北米コロンブス世界博の賞牌(明治26年)や第四回内国勧業博の進歩賞(明治28年)を受賞し、結実していった。
政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用材の選定から乾燥の具合や塗装の配合等という製作上のあらゆる難問にぶつかるのだった。
政吉はこの明治30年代の初頭を三つの壮挙で飾った。①バイオリン頭部の自動削り機の考案および完成、②本格的工場の建設、③パリ万国博にて政吉のバイオリンが銅賞を受賞。政吉は、これらの壮挙を期に、事業飛躍の体制を樹立し、念願のバイオリン大量生産を始めた。
大正3年(1914)、欧州大戦が勃発した。世界のバイオリン市場を独占していたドイツの生産が絶たれると、世界各地からの発注が政吉に集まってきた。大正4年、隣接地の松山町まで工場を拡げた。
この鈴木バイオリンは現在、鈴木バイオリン製造株式会社という社名で、名古屋市中川区広川町1丁目1番地で製造している。社長は、鈴木隆氏だ。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274