フトン小売の専門店として「タナカ」という店をご存じの向きは多いと思うが、それを経営するタナカふとんサービスも、明治8年(1875)創業という長い歴史を誇っている。
同社は、田中又三郎が創業者だ。又三郎は「米又」という屋号で米屋を営んでいたが、一宮の真清田神社の前で毎月3と8の日に露店が並ぶ市があり、そこで古蚊帳を売るようになった。それがきっかけで、明治8年から、蚊帳やフトン(正確には綿などフトンの材料になるもの)を売る商いを始めた。
店は、明治39年に為吉が二代目になって受け継いだ。その為吉の妻は「きょう」という名で、夫婦で切り盛りをしていた。
だが、その為吉が早死にしてしまったので、きょうはやむを得ず再婚して、彦一郎を養子に迎えた。彦一郎は、大正12年(1923)に三代目に就任した。だが、きょうが職人さんを抱えながら、やりくりしていたのが現実だったという。
為吉ときょうとの間に生まれたのが寿一(本名は又一)だ。寿一は、大正5年の生まれ。県立一宮中学校(現・一宮高校)に入学した秀才で、旧制第八高等学校への進学を目指していたが、家庭の経済事情がそれを許さなかった。同級生が東京の一流大学に進学するのを横目に、寿一は「商売で勝ってみせる」と心に決めた。
寿一は、頭の切れる青年だった。フトンの卸と小売の両立は難しいと判断して、小売一本で勝負することにした。ただ店で待つだけでなく、自転車に乗って起や奥町などの機屋や紡績工場を回って、住み込みの女工さん相手にフトンや蚊帳を売った。
その寿一は、昭和18年(1943)に幸子と結婚した。幸子は、名古屋の和洋傘屋の名門「紅葉屋」の娘だった。
この夫婦に対して、時代の激動は容赦なく襲いかかった。戦争で、一宮は焼け野原になってしまった。そこで敗戦後、繊維製品の統制解除により、一宮市の本町通2丁目で間口2間の戦災復興住宅2棟の家で寝具小売店を再開した。夫婦2人が幼児3人を育てながら細々と営業を再開した。当時の一宮は、焼け野原になったので、物があれば何でも飛ぶように売れた。
昭和46年には、本町3丁目で鉄筋5階建ての店舗ビルを完成し、社員38人の総勢で中堅企業へとスタートを切った。だが、モータリゼーションの進展で、人の動きが郊外へとシフトする時代だった。そこで郊外型の専門店を多店舗化する。
昭和49年に名古屋市の大曽根で大型店をオープンしたのを皮切りに、その後江南店、柳津店などを相次いで開いた。こうして夫婦は、フトン業界の最大手にまで登り詰めていった。
この寿一・幸子という夫婦が築いた基盤をさらに飛躍させたのが現社長の公雄氏だ。公雄氏は、慶応義塾大学経済学部を出て、名古屋の繊維総合商社丹羽幸で修業し、昭和44年に家業に入った。昭和60年に社長に就任。その後のタナカふとんサービスの躍進ぶりは、今さら言うまでもない。
タナカふとんサービスも、再び世代交代期を迎えている。公雄氏の子の宏明氏は現在専務で、次期社長になるべく帝王教育を受けている。宏明氏が新機軸として打ち出しているのが「じぶんまくら」という新商品だ。これはオーダーで自分の体型に合った「まくら」を作るものだ。
本社は、一宮市天王1‐4‐10。
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