慶応3年(1867)11月15日夜、坂本龍馬が暗殺された。
その夜、龍馬は河原町通の醤油商・近江屋の2階座敷で、陸援隊長の中岡慎太郎と面談中だった。
午後8時頃、空腹を覚えた龍馬が下僕の峰吉に軍鶏肉を買ってくるように依頼した。峰吉は引き受けて席を立った。この間、何分くらいあっただろうか。近くの鶏肉屋で20、30分ほど待たされた峰吉が近江屋に戻ったのは9時過ぎのことという。このわずかな時間に事件は起こった。
龍馬は即死だった。ちょうどその日が33歳の誕生日でもあった。
龍馬暗殺の2カ月後の慶応4年(1868)1月、名古屋で青松葉事件と呼ばれる血生臭い事件が起こった。
鳥羽伏見の戦いが始まった。倒幕派にとって東海地区、特に尾張藩の動向は重大な関心の的であった。尾張藩がどちらにつくかで、天下の動向を左右しかねなかった。
岩倉具視は、尾張藩主の徳川慶勝を新政府の要職に就かせ、御三家筆頭の尾張藩を、自分の手の内に取り込もうと懸命であった。
慶勝は、将事慶喜を従兄弟に、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬を弟に持っていたので、複雑な立場に追い込まれた。
その頃、尾張藩内では、勤皇派と佐幕派の対立がますます表面化していた。
藩内では、慶勝が上京していることや、政局の混乱もあり、再び佐幕派が台頭しつつあった。このため慶勝は慶応4年1月14日、急遽帰国した。藩論を勤王倒幕へと統一するためであった。
鳥羽・伏見の敗北と同時に、慶喜は夜に容保、定敬を連れて大阪城を脱出し、開陽丸に乗り江戸へと逃亡して行った。その慶喜を追うかのように、朝廷は幕府追討令を下した。
この時、慶勝のもとに、はるばる尾張から一人の侍が駆け込んできた。報せてきたのは、尾張藩内のクーデター計画であった。
1月15日、慶勝は300人の兵を率いて、一路名古屋城に向かった。城に着いた慶勝は、西鉄門、東鉄門など城内の全ての門を閉じさせ、城は中から封鎖された。
3人の藩士が呼ばれた。御年寄列渡辺新左衛門、城代格大番頭榊原勘解由、そして大番頭格石川内蔵允である。
問答無用の、いきなりの処刑は夕刻4時から始まった。二の丸御殿の向屋敷の前庭(現・愛知県体育館)に三枚の畳が裏返して並べられていた。介錯人による斬首である。
登城したまま、夜に入っても帰らないので、不安に思っていた渡辺、榊原、石川の三家に、家邸・禄高の召し上げ、死体の引き渡しが伝えられたのは夜半すぎであった。
渡辺新左衛門の家は、突然の主人の処刑に驚く暇も与えられなかった。直ちに屋敷を明け渡して出て行くことを迫られた。妻子らは、他家へお預けとなった。
榊原勘解由の屋敷では、主人の遺骸を検分するため、90歳の父・蓬庵が付き添いの女に助けられて玄関まで出た。式台の上まで遺骸を上げさせ、じっくりと対面して、無念の形相をした息子の首をみた父蓬庵は、翌朝、切腹して果てた。
21日、慶勝は物頭以上の総登城を命じ、そこで官軍側に付くことを公表した。これにより、尾張藩は勤王一統となった。藩の軍は、江戸に進軍し、さらに甲信、北越そして奥羽と転戦し、会津若松城の攻撃にも参加した。
この青松葉事件で象徴されるように、幕末の名古屋は不穏な空気が漂っていた。治安も悪くなっていた。長州藩浪人による江戸襲撃の噂も流れていた。
そこで藩は、藩士5人1組になっての城下の夜回りを開始した。また、商人や職人といった町衆にも自衛措置を講じるように求めた。慶応3年に出された御触書の内容は次のようなものであった。
「賊が押し入った場合には、鐘や銅のタライを叩いて、四方近隣に急を告げよ。急を聞いたら、早速馳せ参じよ。容赦なく叩き伏せて捕らえることを、町内で定めよ」
「戸の警戒を厳重にするため、午後8時は木戸を閉めて くぐり戸とし、午後10時から朝6時までは門を閉じて出入りを監視させ、盗賊とあらば町内中が木戸に集合せよ」
だが、この青松葉事件は、明治時代になってから、えん罪だったこととされ、大赦された。この事件は約40年後、日露戦争の真っ最中に、劇化された。開催したのは御園座で「幕末哀話 青松葉事件」という演題だった。「幕末の尾張藩のえん罪事件・青松葉事件」として、名古屋市民は、幕末の動乱で犠牲になった旧尾張藩士たちに涙した。
ところで、これらの武士はどこに住んでいたのだろうか? 江戸時代の名古屋古地図研究の第一人者である元・名古屋市学芸員の松村冬樹先生によれば、次のようになっている。
御年寄列渡辺新左衛門=片端筋竪杉ノ町南東角で、現在の住所は東区泉1丁目4。スズケン本社の道を隔てて南側。
城代格大番頭榊原勘解由=三之丸の内の桜馬場筋内片端筋西北角で、現在の住所は中区三の丸2丁目4。県庁西庁舎の駐車場である。
大番頭格石川内蔵允=三之丸の内の御霊屋筋中小路西北角で、現在の住所は中区三の丸1丁目5。中日新聞社北館である。〔参考文献『NHK歴史への招待 第24巻 幕府崩壊』(城山三郎 日本放送出版協会)〕
慶応4年(1868)は、正月早々から戦が始まった。1月3日、鳥羽伏見で、薩摩・長州を主力にした軍勢と、幕府軍が衝突し、戊辰戦争が始まった。
尾張藩は青松葉事件から2週間後、江戸を目指す倒幕軍の東海道先鋒を命ぜられた。尾張藩は、徳川御三家筆頭であったが、討幕派としての道を進むことになった。
ここから慶勝の必死の和平工作が始まった。慶勝は、直ちに多くの藩士たちを諸藩に送り、勤皇派に引き入れるための説得工作に奔走した。遠州、駿河、甲斐、上州など進軍するコースにある諸藩から70にのぼる勤皇に帰順する旨の請け書を集めた。
錦の御旗を押し立てた官軍は、事件の余韻さめやらぬ名古屋の街を通過していった。そして江戸城無血開城を迎えた。このように慶勝は、明治維新を平和的に実現させたことで功労があった。
もし、目本の中心部に位置する尾張藩が新政府に反旗を翻して徹底抗戦していたら、日本は大混乱に陥って外国勢力のえじきにならなかったとも限らない。だが、実際に明治新政府が誕生すると、功績は薩長が独占してしまい、尾張藩はほされてしまった。そこから名古屋の長い不遇の時代が始まることとなった。〔参考文献『幕末の尾張藩』(櫻井芳昭 中日出版社)〕
まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の主邑は松山。
『坂の上の雲』の書き出しである。後にロシアのバルチック艦隊を撃滅することになる秋山真之が誕生して間もなく起きたのが明治維新だ。明治という時代は、慶応4年(1868)9月8日、明治天皇が即位したことで改元されて始まった。
慶応3年から明治元年(1868)にかけて、新時代を象徴する人物が相次いで誕生する。
名古屋が誇る偉人・豊田佐吉が生まれたのは、慶応3年2月14日で、遠江国敷知郡山口村(現・湖西市)が誕生の地だった。
この佐吉の生涯をまとめた『豊田佐吉傳』(昭和8年刊)にその人物像が描かれており、この本を参考にして、佐吉の歴史を解説する。
佐吉と同時代人として比較したくなるのは、『坂の上の雲』の主人公である。騎兵隊の父と言われた秋山好古は、安政6年(1859)1月7日に愛媛松山で誕生した。佐吉より8歳年上だった。
日本語の革新に貢献した俳人の正岡子規は、慶応3年9月17日の生まれで、佐吉と同年だった。
秋山真之は、その翌年の慶応4年3月20日に生まれた。
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