鶴弥といえば、三州瓦の大手で株式上場までしているが、その歴史は明治20年(1887)まで遡る。
創業者は鶴見清冶郎といい、信州において瓦製造技術を取得した後、明治20年に刈谷市小垣江町で「ヤマセ瓦工場」として創業した。日本が日清・日露戦争を経て産業革命に入るという時代背景の中で、瓦の需要が拡大し、明治43年には三州瓦産地だけで350軒を数えるまでになったという。もっとも清冶郎の工場は、ごく小規模だったために、明治から大正に至る激動の時代の中で荒波にもまれ続け、一時は廃業も考えたほどだったとか。
清冶郎の跡は、長男弥四郎が大正14年(1925)に家業を継承した。
その弥四郎の長男として昭和8年(1933)に生まれたのが榮だ。この榮は、家内工業に過ぎなかった工場を飛躍させて今日の姿にした中興の祖になる。
若い頃野球三昧だった榮は、厳しい家計を考えて進学を諦めて家業を継いだ。家業を継いだ時は、一つの目標を定めた。それは「将来、家業でなく企業にして、何人も使える会社にする」というものだった。
榮は、結婚直後に伊勢湾台風に遭った。逃げる暇もない中で、かろうじて家族全員が屋根に上り、命からがら家族を守ることができた。だが、蓄えてきたものを一瞬にして失ってしまった。茫然自失だった。
昭和37年には妻綾子が妊娠したが、榮は慢性腎炎という重い病気になってしまった。普通ならめげるところだが、榮の精神力は強かった。病を克服しながら、事業を伸ばしていった。
昭和43年、株式会社鶴弥製瓦工場を設立した。第一トンネル窯の操業を開始した。実際には榮がすべて切り盛りしていたが、初代社長には父弥四郎を据え、社名もその字をとって「鶴弥」とした。
鶴弥は三州瓦の業界では、最後尾にいたが、グングン業績を伸ばしていった。榮は社員の労働条件の改善にも前向きだった。昔の瓦業界は出来高払いの日給制が一般的だったが、榮は月給制を採用しながら、週休二日制も実施した。この前向きな経営姿勢のおかげで労使一体となって業績を伸ばし、平成6年(1994)には名古屋証券取引所市場第二部へ株式の上場を果たすまでになった。
榮は、会社の基盤を確かなものにした上で、平成20年に会長になった。後任は、鶴見哲氏が就任した。榮は平成24年に亡くなった。
瓦業界を取り巻く環境は厳しいが、鶴弥は防災瓦という独自の技術を残っていて、安定した業績を上げている。
本社は、半田市州の崎町2‐12。
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