伊藤次郎左衛門家は、松坂屋のルーツである「いとう呉服店」の宗家である。その14代として幕末から明治大正にかけて活躍したのが伊藤祐昌だ。
伊藤次郎左衛門家は、慶長16年(1611)の清須越以来の商人で、茶屋町(名古屋市中区丸の内2‐5。現・アイリス愛知)の場所で、呉服太物商を営んでいた。
祐昌は、慶応2年に19歳で家督を継いだ。堅実な手腕で明治期の伊藤家を発展させるとともに、名古屋博物館長などの公職につき地域に貢献した。
祐昌の功績の中で特に大きかったのは、名古屋城の金鯱の復旧だったといわれる。金鯱は新政府になって以来見せ物として回された。明治7年(1874)に本願寺東別院で、名古屋博覧会が開催された際にも金鯱は展示物になった。そのような状況を哀しんだ祐昌は、財界人と話し合って天守閣に戻す運動を始め、復旧させた。
祐昌は、名古屋商法会議所の初代会頭になり、明治14年3月から明治18年2月まで、その座にあった。また、大須に明治11年にできた名古屋博物館で館長を務めた。濃尾大地震の際にも多額の寄付を行っている。
このような地域奉仕のかたわらで、堅実な経営を行った。明治10年に第十一国立銀行設立にかかわり、14年に伊藤銀行を設立。伊藤銀行は大正・昭和恐慌期にも取り付けを免れ得た数少ない銀行で、東海銀行の前身の一つになった。
また、子の祐民は、周囲の懸念を払いのけて名古屋最初のデパート業への転換を推進した。明治43年に栄町角(現・スカイル)に店舗を建築し、さらに大正14年(1925)に商号を全店統一の「松坂屋」に改称するなどの積極経営を行った。
この伊藤家は、岡谷鋼機の岡谷家と幾重にもまたがる縁戚関係にある。〔参考文献『名古屋の商人 伊藤次郎左衛門 呉服屋からデパートへ』(名古屋市博物館)〕
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