天然の真珠は、数百の真珠貝から偶然に一つ見つかる程度だった。御木本幸吉は、鳥羽の海産物商人だったので、真珠の価値がわかっていた。そこで数年前から試行錯誤を繰り返していた。
その結果、この年に鳥羽の海で実験のために施術した貝から、半円ではあるが、養殖真珠を発見し、真珠の養殖に成功した。世界初の快挙だった。真円真珠の形成法を確立するまでには、さらに10年あまりの歳月を費やさなければならなかった。〔参考「ミキモト」のウェブサイト〕
真之は、イギリスにおいて建造中の巡洋艦吉野の回航を命じられて、イギリスに行くことになった。真之は吉野を見たとき、これこそ新時代の軍艦だと思った。エンジンを推進力にしていただけに、帆がなかったからだ。しかも世界最高速度だった。真之は、これなら清国の軍艦にも対抗できると思った。
好古は、佐久間多美と結婚した。多美は下宿先の娘で、家は旗本だった。
佐吉は明治25年(1892)の頃、悩みの人になっていた。動力織機の考案は遅々として進まなかったし、実生活の大変さは増していた。
そして明治26年、佐吉は遂に工場の閉鎖に追い込まれた。そして故郷に戻った。父母は大喜びだった。息子の失敗を聞かざるのみか、ただ帰ってくれただけで満足だった。
もっとも佐吉自身は憂鬱だった。村では相変わらず奇人扱いされた。父は再び大工の修業をするように迫った。佐吉の発明を理解する人は誰もいなかった。佐吉は終日一室に閉じ籠もって、動力織機の考案に取り組んでいた。
佐吉はこの明治26年に、最初の妻たみと結婚した。父の命令によって結婚したようなものだった。新婚生活は東京の浅草で過ごした。〝新婚生活〟といっても、とてもそういえるようなものではなかった。
佐吉は発明に没頭していて、ろくに収入がなかった。佐吉は2階にいて、食事の時さえまともに下りて来なかった。夫婦の会話もない。佐吉は毎晩のように徹夜して、明け方になると浅草の観音に願掛けに行った。たみにとっては、耐え難い日々だったに違いない。
妻のたみは、生活費を稼ぐために1階で機織りに追われた。自分の衣類まで質屋に入れて生活費の足しにした。だが、耐え切れなくなり、結局、たみは佐吉を見限って家を出ることになる。その間に生まれた子が喜一郎である。
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