この年は、愛知時計株式会社が設立された。
愛知時計株式会社は、明治25年(1892)に前身が橘町で設立されたが、そこに五明良平も参画することになり、明治26年に資本金2万円でのスタートになった。五明良平は、鈴木摠兵衛を訪ねて、社長就任を依頼した。鈴木摠兵衛は断り切れずに受けた。
時計産業は、明治20年代から名古屋の主要産業として発展し始めた。林時計の成功をみて、多くの企業が続々と参入した。名古屋時計、加藤時計、尾張時計、明治時計など雨後の竹の子のように誕生した。
時計の製造額は、明治27年に14万円だったが、明治31年には79万円になった。全国の生産額の8割に達した。売り先は清国で、当時有力だったアメリカ製やドイツ製のシェアを奪い、販路を拡大した。
中でも群を抜いて大きかったのは、林時計だった。その次が愛知時計だった。愛知時計は明治29年に職工300人を抱える大規模な工場に成長した。
名古屋が時計産業のメッカになった理由の一つは、原材料調達の優位性だった。時計の原材料は、木材と金属類である。木材は木曽の特産品の材木が豊富にあった。また、木材加工の職人も沢山いた。金属類は、真ちゅう金具と、ゼンマイだった。真ちゅう金具は、大坂から仕入れていた。ゼンマイは輸入品に頼っていた。
時計産業は快進撃を続けていたが、明治33年には停滞し、34年には落ち込んだ。その原因は粗製濫造のおかげで、日本製品に対する信用が落ちたことだった。そのために、愛知時計ですら、明治34年に一時休業に追い込まれた。35年には半額減資の状態に陥った。
愛知時計は、鈴木摠兵衛が社長を務めていたものの、自社の経営や、商業会議所の仕事もあって専念できなかった。そこで明治34年に入れたのが青木鎌太郎だった。青木は不良在庫の山を処分し、その手腕を評価され、登用されることになる。
青木はもともと富沢町(現・中区錦3丁目。本町通の一本東側の南北通)の宿屋の息子だった。若い頃から、当時ハイカラだった自転車を乗り回し、モダンボーイとして通っていた。青木は愛知時計に入社して、不良在庫の整理で成果を上げて、幹部として取り立てられた。老年になるが、青木は昭和18年(1943)から昭和21年にかけて、名古屋商工会議所の十三代会頭になり、中部財界のドンとして、戦後の復興に尽力したことでも知られる。
なお、愛知時計が軍需産業に転換するのは、明治37年に東京砲兵工廠から信管部分の製作を強制的に委託させられたことだった。それ以降、軍需産業の企業として大発展する。
それから現在の本社所在地の熱田区千年は、もともと愛知時計の大株主でもあった伊藤次郎左衛門が提供したものであった。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
この年は、名古屋で初の本格的な倉庫となる名古屋倉庫が設立された。場所は、笹島停車場近くの泥江町1丁目(現・中村区名駅4丁目。旧中経ビル近辺)である。奥田正香が中心となって設立した。
当初主に扱ったのは、紡績糸、綿花、砂糖それに米穀類である。倉庫業は、日清戦争後には戦勝景気もあって繁忙を極めた。
なお、名古屋倉庫の繁盛ぶりを目の辺りにして、後年、そのライバル会社が設立されることになる。それは東海倉庫という社名で、明治39年(1906)のことだった。滝系の資本がバックだった。東海倉庫は天王崎にあり、現在劇団四季がある場所だ。
名古屋倉庫と東海倉庫は激しく競い合うことになるが、それが合併して、現在の東陽倉庫となるのである。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
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