幕末の動乱期の慶応3年(1867)、笹屋(岡谷鋼機)を発展させた七代目惣七真棒が60歳で死去した。夭折した兄に代わり八代目に惣三郎が就任し、惣七真睦と名乗った。惣三郎は、若くから岡谷家の嗣子としての慣例である店頭に出ての実習を積み、商売に精通していた。その反面、少年時代から読書を好み、長じては書画を愛好し、ときに和歌を楽しむといった岡谷家伝統の好学、風雅の人であった。
ところが文久2年(1862)に名古屋で流行ったコレラによって惣三郎は長男、妻、生後間もない次男を亡くしたことで、人が変わっていた。家に引き籠り、念仏三昧と写経で毎日を過ごしていた。そこで笹屋の運営を実質的に担ったのが惣三郎の弟で後に九代目惣助を名乗る17歳の真倖であった。こうして笹屋は、この真倖を中心に維新の動乱期を乗り切っていくことになる。
次のページ 豊田佐吉、誕生する
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274