元治元年 1864
その9、高杉晋作決起
――その時名古屋は・・・米価暴騰
ここでいよいよ維新のヒーロー高杉晋作が決起する時がやってくる。第一次征長の際、藩内の保守派勢力が強まり他藩に逃れていた高杉だったが、改革派の家老が処刑されたことを聞き、長州に舞い戻った。
元治元年(1864)12月15日深夜、幕府に恭順しようとする長州藩内の保守派に対し、高杉は下関で兵を挙げた。毛利家の菩提寺である功山寺には、伊藤博文が率いる力士隊と、石川小五郎率いる遊撃隊が集まった。高杉は文久3年の政変で長州に逃れていた三条実美ら五卿に、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、わずか84人の軍勢を率いて下関新地会所を襲撃し占拠した。そして死を覚悟した18人の手勢とともに三田尻の海軍局を襲い、無血で3隻の軍艦を奪った。
この決起によって、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など松下村塾出身者は藩の中枢を握り、これ以降、桂小五郎(木戸孝允)が長州藩のリーダーシップを取ることになった。列強との力の差を痛感していた高杉らは、攘夷を捨て討幕へと向かって突き進んでいく。長州藩は、後に龍馬の仲介で成立した薩長同盟を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で大規模な軍制改革を行った。[参考文献『週刊再現日本史「俗論派」に完勝 高杉晋作、逆転クーデター』(講談社)]
高杉晋作が決起した元治元年(1864)は、日本全国で諸物価が高騰し、人々は困窮のどん底に突き落とされていた。安政5年(1859)の開国、輸出による物資不足の影響で、物価は高騰していた。文久2年(1862)以降、物価の上昇は収まったかに見えたが、元治元年頃から再び上昇し始めた。
尾張藩内でも、元治元年から翌慶応元年にかけて米価が暴騰し、庶民や下級武士達の生活を直撃していた。名古屋城下の各所の米屋には多くの人が押し寄せ、安売りを要求した。藩は米屋に売り惜しみを禁じるように命じたが、効果はなかった。
第一次長州征伐で、慶勝率いる幕府軍は元治元年に長州へ出兵した。従軍中の尾張藩士は「名古屋の近年の物価高騰は極みに達したが、大坂はさらに激しく、兵庫以西は驚くばかり」と記している。第一次長州征伐のための兵糧米買い上げが物価高騰に拍車をかけた。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)・『お江戸の経済事情』(小沢詠美子 東東堂出版)]
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