嘉永6年(1853)
その2、ペリー来航
――その時名古屋は・・・慶勝が14代藩主に就任、改革に着手へ
平成22年(2010)は、NHKが龍馬を主人公にした大河ドラマを放送している。そこで、龍馬の数あるエピソードの中でも名場面?といえる龍馬暗殺から描いた。ここからは幕末の始まりともいえるペリー来航に遡ることにする。
幕末というのは、ペリーが来航した嘉永6年(1853)から明治元年(1868)までの15年間のことを指す。この期間は情勢が刻一刻と目まぐるしく変化して、資料を読んでいてもハラハラ、ドキドキの連続である。265年続いた江戸時代のほんの5%の時間にすぎないが、まさに人間のドラマに溢れている。
それまで誰も見たことのない、黒く巨大な船が浦賀沖に現れたのは嘉永6年(1853)6月3日であった。黒い煙を吐き、あっという間に沿岸に近づいてきた。黒船と呼ばれるペリー率いる4隻のアメリカ軍艦であった。しかもこれらの艦隊はいつでも大砲や銃を発射できるように戦闘態勢を整えていた。幕府の許可も得ず、武装した測量船が湾内奥に入り込み、江戸湾内の測量を始めた。さらにアメリカ独立記念日などには数十発の空砲を轟かせた。
幕府はやむなく久里浜への上陸を認め、浦賀奉行がペリーと会見し、開国を促すフィルモア大統領からの親書を受け取った。十二代将軍徳川家慶が死去したのはそれからわずか10日後の6月22日であった。跡を継いだ十三代将軍が家定で、その正室が篤姫である。家定は風雲急を告げる国難に対処できる器ではなく、加えて病弱であった。
嘉永7年1月16日、ペリーが再び江戸湾に訪れ、横浜を交渉の場として強硬に開港を迫った。そして幕府は同年3月3日に12カ条の日米和親条約を締結した。
ここで一人の人物が尾張に登場する。尾張藩主徳川慶勝である。慶勝の尽力により、尾張藩は幕末の動乱を乗り切ることができた。また、江戸城無血開城を実現するにあたっても大きな貢献をした。まさに賢君と呼ぶにふさわしい人物である。
慶勝は、ペリーが来航する少し前の嘉永2年(1849)、十四代藩主に就任した。この藩主の交替は、ややこしい経緯がある。
尾張藩は徳川一門の大名家である親藩の中で、最も家格の高い御三家の一つである。江戸と京都の中間地点にある尾張は、徳川幕府にとって極めて重要な藩屏(王家を守護するもの、または直轄の領地)であった。御三家の石高は、尾張家が61万石、紀伊家が55万石、水戸家が35万石で尾張家が最も多かった。また、尾張徳川家初代義直は、紀伊徳川家の頼宣、水戸徳川家の頼房の兄であり、尾張家は御三家の筆頭とみなされていた。
徳川将軍家は跡継ぎが途絶えた場合、尾張家か紀伊家から養子を迎えることになっていた。しかし、歴史の中で尾張家からは一人の将軍も出ることがなかった。それどころか尾張家は、十代斉朝から十三代慶臧までの四代にわたる藩主を将軍家から無理やり押し付けられた。将軍家が押し付けた藩主は藩政に興味を示さず、尾張藩士の間には不満が高まっていた。
慶勝は文政7年(1824)、高須松平家の義建の次男として生まれた。高須松平家は、尾張徳川家に跡継ぎがいなくなった時に後継者を出す役割で設けられた特別な家だった。尾張家中では、特に下級藩士を母体とする金鉄組などの幕府反対派が、高須松平家出身で幼い頃から文武両道に秀でた慶勝の藩主就任を待ち望んでいた。このような経緯を経て、嘉永2年に慶臧が死去すると、慶勝の十四代藩主就任が実現した。慶勝26歳のことであった。
コラム
徳川慶喜と慶勝は、実はいとこだった。高須松平家九代義和は、水戸徳川家の出身で、慶喜の父である水戸斉昭の父治紀は兄であった。また、慶勝の母、高須松平家十代義建の夫人は水戸治紀の娘で、斉昭の姉である。つまり、慶勝は徳川幕府最後の将軍となった慶喜とは血の濃いいとこだった。この2人、良く似た顔ではなかろうか?[参考文献『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]
ペリーの2度にわたる来航で、江戸詰めの尾張藩士は、浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)周辺の警護や海岸砲台の設置を担当した。尾張藩士の中にも先見性のある者がいて、これからは洋学を学ぶ必要があると考えた。それが渡辺新左衛門である。
渡辺は浜御殿付近の海岸で砲台の警備を命じられ、慌てふためく江戸の人々の様子を目の当たりにし、黒船の脅威を身をもって体験した。渡辺は、これがきっかけで鉄砲の研究に励むようになった。新型銃のメカニズムを研究し、「鉄砲新左」と呼ばれるまでの専門家になるのである。
渡辺は保守的な藩の要職に就いていながら、積極的に新しい知識を取り入れた優れた人物だった。だが惜しいことに尾張藩は、後述する青松葉事件でこの有能な士を失うことになる。
渡辺の部下、宇都宮三郎もこの黒船の脅威を身をもって体験した一人である。彼はこの事件をきっかけに蘭学、砲術、舎密学(化学)を学んだ。さらなる勉学を志して脱藩した三郎は、勝海舟の推挙により幕府の研究機関である調所で化学を研究することになる。三郎の直属の隊長であった石川内蔵允は脱藩の際、洋書を多数与えて、三郎の志を励ました。宇都宮三郎は、独力で破壊力がある砲弾の火薬の発明などを行っている。この宇都宮三郎は、明治になってから新政府で高位に就くまでに出世した。[参考文献『血ぬらずして事を収めよ 尾張藩幕末風雲録』(渡辺博史 ブックショップマイタウン)]
ペリーが来航する3年前の嘉永3年(1850)、尾張は水害にたたられた。この年の秋、台風が3回襲来した。その被害は、尾張藩領全体で流出・倒壊家屋が4千970軒に達するほどであった。
特に8月3日から8日まで続いた暴風雨は「120年に1度」と評されるほどだった。大雨によって河川は氾濫し、濁流は庄内川右岸の味鋺村の堤防を決壊させて、如意村、豊場村一帯に流れ込んだ。さらに西に向かって新川に流れ込んだ濁流は、比良橋、平田橋を落とし、美濃路に架かる大橋も半壊させた。
新川は増水し、比良橋の下流で左岸が決壊した。新川と庄内川の堤防に囲まれた小田井輪中に濁流が流れ込み、輪中の村人は被害甚大だった。洪水後、被災地の住民は食物を得るために「男は合力に出、女は下女奉公に出た」という。生活に困窮した人々の間では「娘を売女に売り候事」も行われたという。
米価は洪水の影響もあって高騰した。尾張藩はその対策として全国から米の買い付けを行ったが、食糧不足は容易に解消しなかった。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
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