慶応2年(1866)
その10、薩長同盟成立
――その時名古屋は・・・洋物商いで稼いだ紅葉屋が襲撃される
高杉晋作らが長州藩の主導権を握った後、薩摩と長州が密約を結ぶことになる。
討幕への意思を固めつつあった長州藩と同様に、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らも幕府を倒し、富国強兵を実現させなければならないと考えていた。しかし、文久3年の政変や禁門の変で対立してきた両藩は、なかなか歩み寄ることができなかった。そこで坂本龍馬の仲介で桂小五郎、西郷隆盛らが会談することになった。そこで薩摩が欧米の新式武器を代わりに購入して、長州に売ることが決まり、両者は合意に達した。長州藩はこの頃欧米列強から武器を購入できなかった。慶応2年(1866)1月21日(一説には1月22日)、ついに薩長同盟が成立した。薩摩は「幕府が2回目の長州征伐をする際は、長州に加勢する」と約束した。
この数日後、龍馬が寺田屋で襲撃された。しかし、この時は高杉晋作からもらったピストルで応戦して難を逃れた。
この年、幕府は諸藩に第二次長州征伐のための出陣を命じていたが、諸藩はなかなか動こうとしなかった。慶応元年から各地で一揆が起きていた。米価が暴騰し、「世直し」を求めて民衆エネルギーは爆発しかけていた。諸藩にしてみれば、足元から火の手が上がっているので、それどころではなかった。
慶応元年(1865)5月、幕府は第二次征長軍を起こし、将軍家茂自身が出陣した。
同年6月、高杉晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)で海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。また、小倉口方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。
同年7月、将軍家茂が突然大坂城で亡くなった。22歳だった。問題は、後継の将軍を誰にするかであった。一橋慶喜しか候補がいなかったので、慶喜が受けたが、その際に「徳川本家を継ぐことは承知するが、将軍にはなりたくない」という条件を付けた。
同年8月、慶喜は長州征伐のため自らが出陣した。だが、諸藩の中には家茂の死を聞き、帰国してしまうところもあった。そこに関西地方を暴風が襲った。慶喜は出陣を取りやめ、幕府軍の解散を朝廷に願い出た。この状況を好機到来だと受け止めたのが岩倉具視だ。岩倉は宮中から退いていたが、幕府が長州征伐に失敗し、慶喜は家茂の喪に服して当分出てこない、と判断した上で、仲間の公家を通じて天皇に4カ条の改革案を出した。この改革案で岩倉は、幕府よりの公家達を追い出し、朝廷を改革しようと画策するが、孝明天皇はこの要求を退けた。そこで岩倉は、朝廷と幕府との融和を図る政策を捨て、倒幕へ向かっていくことになる。ここで岩倉は「王政復古」という言葉を掲げた。
同年11月、天皇は慶喜に対して、将軍に任命するという内意を伝えた。慶喜は、天皇の内意が下ったとたんにこれを受諾した。同年12月25日、孝明天皇が崩御した。36歳だった。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]
慶勝は、第二次征長軍の派兵に反対した。だが、幕府はあろうことか、弟で前尾張藩主の茂徳に先鋒総督を命じてきた(後に紀州藩に変更)。慶勝はもちろん断固反対した。慶勝は、第一次征長軍の総督だった際に、和平交渉を優先させたように、武力行使には反対だった。日本が内乱状態に陥ったら、欧米列強のえじきになりかねない、との考えからだった。
だが、幕府は第二次征長軍を起こした。将軍家茂は、慶応元年(1865)5月に江戸城を出て、東海道を西へ向かい、やがて名古屋城に着いた。将軍は陣笠をかぶり、錦の陣羽織、小袴を着て馬にまたがり、家康が関ヶ原に進発した時の例にならって、金扇と銀三日月の馬標を立てて進んだ。歩・騎・砲の幕兵が前後を護衛し、老中、若年寄以下、幕臣、諸藩主、諸藩兵が従い、威風堂々たるものだったという。この大軍勢を泊めるため、城下では厩も急ごしらえで造られた。
将軍家茂は、名古屋城にも泊まった。そこで慶勝は第二次長州征伐を思い直すように改めて諫言した。若い家茂にとっては、こうるさい将軍補佐役であったに違いない。だが、慶勝自身も将軍家茂に従って進軍している。
翌年の慶応2年(1866)、名古屋の街は、騒然としつつあった。2月8日の夜、攘夷派の金鉄組が、本町広小路下の洋物商紅葉屋を襲撃するという事件が起きた。
この頃、農作物が不作で、万延元年(1860)には米価が暴騰して飢饉に陥り、飢饉は慶応2年まで6年続いた。財政難の尾張藩も広小路に御救い小屋を作り、窮民の救済を開始した。大手町あたりには「下はなく上は袖なき陣羽織、諸色高直に付御威光売切申候」という幕政批判の張り紙が出た。
江戸城や大坂城の藩士から次々と、一揆・打ちこわしの情報が伝えられていた。藩は藩士に口頭でこれを伝え、名古屋での注意を促した。慶応2年5月12日からの大坂米屋打ちこわしは、5万人規模になったとの情報も入った。
5月14日、名古屋城下の各所の米屋に多数の人々が押し寄せ、口々に米の安売りを要求し、店先の売米を持ち去った。藩は、米屋の売り惜しみが下層民を苦しめ、反乱につながるとみて、日用小売り米の売り出しを円滑に行うように命じ、打ちこわしの拡大に対処した。
全国で起こった未曾有の一揆・打ちこわしは、尾張藩に米穀の領外輸出の禁止や、御救い小屋の増設などの緊急対策をとらせた。御救いのための財源を持たない藩当局は、藩士の上納米と富商に依存するしかなかった。この年の風水害による減収は、この事態を深刻なものとし、藩は粥や雑穀によって食いつなぐようお触れを出している。
慶応2年から3年にかけて、下からの「世直し」の波と西欧諸国の圧力の中で、幕府も尾張も激しく揺れていた。そうした中で始まったのが、先に紹介した「ええじゃないか」であった。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
安政5年(1858)に欧米列強との通商条約が結ばれて以来、日本には外国から色々なモノが入ってきた。輸入品を扱う商人が出始めると、これを排斥する運動も起こった。そこで輸入品の統制のため、尾張藩は慶応3年(1867)、船入町(現・中村区名駅5)に洋物改所を設置して、改所の証印がない物品の売買を認めないこととした。また、逆に尾張藩も輸出による外貨獲得を目指して、材木・陶器・大根・人参・美濃紙を輸出品目に指定した。[参考文献『荒川百三十年』]
どんな時にも、これ幸いとばかりに稼ぐ商人がいる。
本町通りを広小路を越え、末広町に向かって歩いてゆく。入江町筋を渡ると、通りに面して右側に紅葉屋がある。この店は、幕末、洋反物商として巨財をなした紅葉屋の屋号と経営権を譲られた番頭の浅野甚七が創立した店だ。
浅野甚七の店と通りを隔てた向い側に大きなしもた屋(商売をしないで暮している格子づくりの家)がある。このしもた屋について大福帳は、「元は海西郡鬼坊主村の御百姓、当市洋物商の元祖で在ったことは面白い。東海唯一の新田持豪長者」と記されている。
新田持豪長者とは、神野金之助のことだ。幼少の頃の金之助についての逸話を林董一先生は『明治の名古屋人』で、次のように紹介している。
「15歳のころ、当時肥料商を営む父から、夜業として木綿糸をつむぐよう命令されたが、彼はそのくずを売って貯金することを忘れなかった。また竹藪に入り、落ちている竹の皮を拾いあつめたり、空地に枝豆をつくったりして、貯金の高を示す帳面の数字がどんどんふえていくのをみて、ひとりよろこぶ少年時代であった」
栴檀は双葉より芳しというが、この心がけでもって金之助は後に、名古屋財界の重鎮として明治銀行、福寿生命などの会社を起し、明治43年には名古屋鉄道の社長に就任した。
商才に長けていたのは金之助だけではない。金之助の長兄友三郎も、嘉永4年(1851)の15歳で紅葉屋の富田重助の家に養子入りし、経営の才を発揮する。三代目を襲名した重助は、練油や白粉、紅などを扱う小間物屋であった紅葉屋を西洋の小間物や舶来の毛織物を扱うことによって、大幅に業績を伸ばして名古屋一流の洋物店にした。
安政年間(1854-1859)通商貿易が開かれた。元治元年(1864)ごろから、重助は横浜に出かけて品物を輸入商から直接買い付け、それを超快速船に載せて名古屋に送り洋物を大量に扱う商売を始める。ラシャ数百反を買い付け、高速船に積んで、海路名古屋に急送した。洋物は仕入れをすれば、右から左に飛ぶように売れていった。重助の時代をみる確かな眼と、商人としての大胆な発想が、ますます紅葉屋を栄えさせた。
その頃は、横浜が開港されているにもかかわらず、尊皇攘夷の嵐が日本中に吹き荒れていた。名古屋の町でも、金鉄組と称する若い藩士たちが攘夷をかかげて過激な運動をしていた。洋物を扱って金儲けをするのはけしからんと、金鉄組は洋物商を目の敵にしていた。
慶応元年(1865)、150人の連署をもって、藩主慶勝に対し、紅葉屋重助など10軒の洋物商を廃業にせよとの建白書を出してきた。
建白書だけでは埒が明かないとみるや金鉄組の7人の藩士は実力行使に出た。刀を突きつけ、すぐさま廃業せよと重助を脅した。しかし役者は、重助が一枚も二枚も上手だった。如才なく揉み手をしながら番頭に用意させた五百両を差し出した。日に千両の商売をするという紅葉屋にとっては、五百両の損失は、たいした痛手ではなかった。そして金鉄組の面々に向かい、在庫の洋物がすべて捌けるまで廃業を待ってほしいと言った。約定書と五百両を受けとり金鉄組は、紅葉屋を去って行った。
この話を聞いた人々は、紅葉屋の洋物が蔵からなくならないうちに買おうと店におしかけた。在庫の品は、またたく間になくなった。実は、重助は横浜から品物をこっそりと仕入れ、それをまた売っていた。
慶応2年(1866)2月8日の夜、金鉄組が、2度目の襲撃をかけた。前年の約定を破り、商売を続けているのは、けしからんという理由だ。金鉄組は刀を抜き、洋物を切り裂き意気揚々と引きあげた。
紅葉屋襲撃後の2月23日、大曽根の十州楼で、事件の黒幕、田中不二麿、丹羽賢たちが酒を飲み、乱暴を働くという事件を起こした。彼らは紅葉屋事件とあわせ、差控え(自宅謹慎)という処分をうけた。紅葉屋の方は2週間の戸締謹慎だった。
このことがあって、紅葉屋の名前は広く知れ渡るようになった。遠く越中や遠州からも取引きの申し込みがあったという。
慶応3年には伊勢神宮の御札が、本町通りの金持の商家の上に舞い降りるという事件が相次いだ。人々は通りを踊り狂って歩いた。このええじゃないかの騒動に際して紅葉屋は、絶好のかせぎ場とばかりに“踊り子のゆかた”の売り込みに成功し、莫大な利益をあげた。
紅葉屋事件の黒幕、金鉄組の田中不二麿は新政府に仕え、司法大臣となった。丹羽賢は五等判事になった。一方の紅葉屋の富田重助、神野金之助の兄弟は、名古屋の財界の重鎮として活躍した。
紅葉屋に攻め入った側も、守る側も両者とも新しい時代の波にのることができたわけである。[『名古屋本町通りものがたり』(沢井鈴一 堀川文化探検隊)より転載・参考文献『近世名古屋商人の研究』(林董一 名古屋大学出版会)]
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