文久2年(1862)
その7、龍馬脱藩へ
――その時名古屋は・・・佐幕か勤王か、金鉄組とふいご組が対立
文久元年(1861)頃から坂本龍馬の獅子奮迅の活躍が始まる。
龍馬は文久元年、武市半平太が率いる土佐勤王党に入った。これが尊皇攘夷運動に加わった最初だった。龍馬が尊皇攘夷運動に走り始めた文久元年という年は、孝明天皇の妹、皇女和宮が降嫁した年だった。和宮は同年10月、婚儀のため都を出て、1カ月ぐらいかけて江戸に到着した。家茂と和宮の婚儀は文久2年2月、江戸城内で執り行われた。土佐藩を挙げて尊王攘夷を行うことに限界を感じた龍馬が脱藩したのは、その同年の3月である。
同年12月、坂本龍馬は勝海舟を斬殺するために家を訪ねた。だが、勝から「お前ら何をいってるんだ。開国がいかに大事であるか」と地球儀を前にこんこんと説かれた。龍馬はこれを機にいっぺんに開国論者になり、勝の門弟になった。
龍馬は文久3年4月、土佐藩から脱藩を許され、航海術修業の藩命を受けた。龍馬は神戸海軍操練所設立のために奔走し、操練所塾頭になった。だがその後、藩の召喚命令に従わず、再び脱藩した。
文久2年(1862)5月、高杉晋作は、幕府の派遣視察団の長州藩代表として上海へ渡航した。高杉は、清が欧米の植民地となりつつある実情を目の当たりにして、7月に帰国した。この渡航によって、晋作は「このまま弱腰の幕府に任せていたら、清国の二の舞になる」と考えるようになり、維新のために奔走することになる。
長州は文久3年5月、関門海峡を通るアメリカ商船に発砲し、攘夷を決行した。攘夷はもともと攘夷派に責め立てられた慶喜が、5月10日に決行すると命じていたものだが、実行したのは長州だけだった。
同年6月、アメリカ・フランスの艦隊が下関を攻撃した。長州藩は外国艦隊に惨敗し、高杉晋作は藩主に対して、士農工商の身分を問わず入隊できる奇兵隊の結成を提唱した。同年7月、イギリスは薩摩で起きたイギリス人殺傷事件「生麦事件」を理由に、既に幕府から賠償金を得ているにもかかわらず、薩摩に軍艦7隻で来襲して、薩英戦争が起きた。イギリスは犯人の処罰と賠償金支払いを要求してきた。薩摩はイギリス側の要求を受け入れず、攻撃を仕掛けたが、武力に勝るイギリス艦隊が勝利した。イギリスは薩摩から7万両の賠償金を取った。西欧列強との力の差を痛感した薩摩は、西洋の技術を積極的に取り入れるようになった。[参考文献『週刊再現日本史 将軍・家茂との政略結婚 和宮、江戸城に入る!』(講談社)]
後に明治の実業家として後世に名を残すことになった渋沢栄一であるが、文久3年(1863)の頃は尊王攘夷の志士であった。
渋沢は米、麦、野菜などの生産だけでなく、藍玉の製造販売や養蚕も手掛ける大農家の息子として、天保11年(1840)に武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)で生まれた。農家としての仕事以外に、商人としての知識や才覚も身に付けなければならなかった。栄一も小さい頃から藍葉の仕入れや藍玉の販売のため、父と一緒に信州や上州へ出かけ、14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになった。
渋沢が江戸に出て、儒学者海保漁村の門下生となったのは文久元年(1861)、そして北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門した。剣術の修行に励むうち、勤皇志士と交友を結ぶ。やがて尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863)に高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画を立てた。ただし、周囲の反対にあってこの計画は実行されることがなかった。
龍馬が尊王攘夷運動に奔走し始めた当時、尾張藩は皇女和宮の行列に対する接待に追われていた。江戸幕府が始まって以来の天皇家との縁組みである。幕府は行列を前代未聞のセレモニーに仕立て上げ、何としてでも威光と権威を世に示さなければならなかった。
皇女和宮の行列は50キロにも及ぶもので、行列の先頭が現在の滋賀県水口町に到着した頃、最後尾はようやく京都御所を出発したほどだった。行列は、当初東海道を行く予定だったが、夷人と遭遇する可能性があることから、中山道に変更された。
和宮を乗せた輿は美濃の関ヶ原、鵜沼、太田、御嶽、大井、中津川を通ったのである。中山道での行列警護は、垂井から鵜沼までを大垣藩が、鵜沼から塩尻までを尾張藩が受け持った。幕末の世情が不安定な折、公武合体を阻止しようとする尊王攘夷派が、和宮を拉致して連れ戻そうとしているという噂もあり、花嫁行列の警護は厳重に執り行われた。通過するルートは尾張藩の領地が多いので、尾張藩は警護や接待に苦労した。
江戸時代の宿場では、大名が往来する時に、近隣の村人を荷物を宿から宿へ運ぶ仕事に借り出していた。これを「助郷」といった。大湫(現・岐阜県瑞浪市)宿には、この行列が通り過ぎるのに4日間かかったという記録が残されている。大井宿(現・岐阜県恵那市)の記録では、近在の百姓代表が過酷な助郷に抗議して郡奉行を斬り付け、死罪となったとしている。各宿場に残る記録から、重い課役に苦しむ民衆の姿を垣間見ることができる。
和宮の接待に追われる中、尾張藩では藩意をめぐっての内部対立が深まっていた。当時、尾張藩には「金鉄組」と「ふいご組」という2つの党がいがみ合っていた。
金鉄組は、安政の大獄で謹慎処分となった慶勝のカムバックを求めた攘夷派のグループで、主に下級武士で構成されていた。対する「ふいご組」というのは金属の加工に用いる“ふいご”から取ったもので、“金鉄”をも溶かすという意味の名前である。尾張藩は、御三家筆頭として幕府を支えるべし、というのがその主張だった。
この闘争は、尾張藩の2大名門で、ともに創立以来、御付家老として権勢を誇ってきた成瀬、竹腰の両家を巻き込み、金鉄組と結んだ成瀬家と、ふいご組の側に立った竹腰家との対立にも発展した。この2つの党は、その主張を譲らず、お陰で容易に藩の態度も定まらなかった。
文久2年(1862)に赦免された慶勝は、将軍家茂の補佐を命じられ、その年に上洛した。慶勝が赦免されて復活すると、尾張藩は攘夷派の慶勝と、佐幕派の茂徳という2人の主がいることとなり、対立構造が明確になった。慶勝を支持していた金鉄組は、家老の成瀬正肥と結んで勢力を拡大し、ついに文久3年(1863)、茂徳は家督を慶勝の実子の元千代(義宜)に譲った。義宜は、十六代藩主となり、これにより慶勝は、幼い藩主の後見として尾張藩の実権を握ることとなった。
慶応元年(1865)の暮れ、十五代藩主茂徳は一橋家を継いで、名古屋を去った。茂徳は佐幕派の後ろ盾であった。
これによって藩論が攘夷派に統一されたかというとそうではない。慶勝は、朝廷と幕府が一体となって政局にあたる公武合体政府樹立という構想を抱いていた。将軍家茂の補佐として上洛した後も、慶勝は公武合体を目指して行動した。だから尾張藩内では攘夷派の金鉄組の勢力が増大したが、佐幕派のふいご組の勢力が消え去ったわけではなかった。それが後に青松葉事件と呼ばれる悲劇的な事件につながるのである。[参考文献『週刊再現日本史 将軍・家茂との政略結婚 和宮、江戸城に入る!』(講談社)]
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