安政2年(1855)
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
――その時名古屋は・・・藩の金集めに町人が悲鳴
幕府は、嘉永7年(1854)3月3日、浦賀に再来航していたペリーに強く開国を迫られ、日米和親条約を締結した。
長州藩の吉田松陰は同年、ペリーの艦隊に対してアメリカへの密航を頼み込んだ。しかしペリー艦隊から拒絶されてしまった。松陰は、密航を企てたことがばれるに決まっていると考えて、奉行所に自首した。この罪により、松陰は伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢した。
松陰は安政2年(1855)に、実家である杉家に蟄居する事になり、杉家の母屋を増築して、叔父が以前開設していた松下村塾の名を引き継ぎ、近隣の子弟に講義をするようになった。松陰は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。松陰が塾生達の指導に当たったのはわずか2年余りにすぎなかったが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達の中には、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府にかかわる者など幕末・明治において大きな活躍を果たした者が多数輩出した。久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は内閣総理大臣を務めた伊藤博文、山県有朋を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本につながる大きな役割を果たした。
尾張藩は、全国の中でも最も裕福な藩のはずだった。何といっても、家康に大きな領土を与えられた御三家の筆頭格である。尾張藩の表向きの石高は61万石だったが、新田開発によって大きく伸び、近世中期の実高は90万石を超えていたといわれる。
ところが、尾張藩はその後財政赤字に苦しみ続けることになる。それはなぜか? 一言でいえば、放漫経営である。経済観念のない藩主、責任感の欠けた幹部、自分の権利ばかり主張する家臣、その集合体がまさに尾張藩だった。その尾張藩の放漫経営のツケを回されて苦しんだのが、庶民だった。
尾張藩は、長年の放漫経営により赤字を垂れ流し、累積債務が雪だるまのように膨れ上がっていた。その利払いさえ困るほどだった。そこで藩は一つの対策を実施した。「米切手」という藩札である。累積債務を返済するにあたって、この藩札を使えば藩は懐を痛めずに返済ができるという作戦であった。
藩札は、藩内だけで流通するという紙幣だった。だが、幕府貨幣と引き換えるための兌換準備金が乏しい中で出しているため、いってみれば空手形同然だった。売る側はもちろん、その藩札での売買は嫌がる。だから藩札の値打ちは下落する一方だった。藩札を出せば通貨紙幣が増えるので、インフレを巻き起こす。それで困るのは庶民だ。だから絶対に行ってはならない“禁じ手”だった。
この経緯は、まさに現代に通じる部分があるので、数字を挙げながら詳述しよう。尾張藩の財政の不足は、天保9年(1838)の時点で、金にして約30万両、米にして約7000石に上った。そして天保12年には、藩債が100万両を超えた。このため藩札の利払い金7万両と、別途入用金8万両として経常経費以外にも調達しなければならない有様だった。
寛政4年(1792)以来、57年間にわたって発行された藩札である「米切手」は、95万両の総発行額のうち、正金35万両を要しただけで、60万両が藩の利得になった。尾張藩は、嘉永2年(1849)、米切手の回収を完了し、米切手問題は一段落した。これで財政運営上の最大の課題が解決された。
しかし、これによって財政が健全化されたわけではなかった。慶勝が襲封(諸侯が領地をうけつぐこと)した嘉永2年の財政は、歳入金が24万両、歳出金が47万両であった。差し引き23万両が不足だった。歳出金のうち、借金の元利の返済支出金が14万両を占めていた。
幕末の藩財政は、相次ぐ商人からの調達金によって、かろうじて維持されていた。だが、その調達金すら思うにまかせない破産状態だった。尾張藩は、嘉永3年から6年にかけて、関戸、伊藤、内田という3家に4万両の拠出を命じた。また、ほかの御用達商人らにも調達金を差し出すように命じた。
幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還で藩自体が消滅した時、藩の債務に関しては払わずじまいとなった。問題を先送りした挙げ句、最後は「おれ、しーらない」とばかりに放り投げて終わらせたのである。[参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)]
慶勝は嘉永4年(1851)に尾張に入国して以来、藩政改革に着手した。年間で1万8000両に上っていた藩主の手許入用金(藩主の生活費、今でいうところの役員報酬)を、わずか20両に切り詰めた。質素倹約に努め、無駄な支出を減らすよう心掛けた。行政改革の第一として、家中の江戸定詰制度を廃止して、江戸詰重臣を更迭した。
ペリーが来航し、家定が将軍となった嘉永6年正月、慶勝はなりふり構わぬ調達金集めに乗り出した。主な商人300人に対して藩の重役が藩財政の窮状を訴え、より一層資金を拠出するように懇願したのだ。このように調達された資金は差し上げ切りと称して、返ってくることのない金だった。厳しい身分制度が存在した時代に、藩の重役が商人に対して、哀れみを乞うということは前代未聞であった。
尾張藩内はその頃、藩士だけでなく百姓や商人の間でも、新藩主慶勝に対する期待感が高まっていた。「お殿様は、財政再建のために、自らが倹約に努めている」その真剣さが好感をもって受け入れられていた。さらに、江戸時代では士農工商という身分制度の中で末端に位置していた商人だったからこそ、この破格の待遇に応えようと、苦しい中から資金を拠出した者が少なくなかった。500両以上拠出した者は庭園の観賞を許され、酒やさかなの饗応を受けた。また、関戸哲太郎、伊藤次郎左衛門、内田忠蔵、岡谷惣七、林市左衛門などが書画、茶器などを下賜された。
幕末の名古屋は、不景気で火が消えたような有様であった。そこで藩は、経済振興策に乗り出した。まず商業振興である。堀川は商品運搬の大動脈であったが、その使用は午後4時までと制限されていた。この制限を嘉永6年(1853)に撤廃した。そして広小路本町から久屋町までの間で、毎月3・5の日に交易市を開き、魚や酒を除いた物品を自由に売買させた。
万延元年(1860)には、素人子供の芝居浄瑠璃を許可した。また、大須観音の境内に他国者の借家を建て、その付近に芝居見物小屋を設けて、興業を許可した。同年、商人を金融面から支援するため、伊藤次郎左衛門を取締役にした商売融通会所を伝馬町(現・名古屋市中区錦1・2)に設け、貨物を抵当に低金利の資金貸し付けが行われた。
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