食糧生産資材分野の業界トップクラスの専門商社である師定は、文久3年(1863)の創業。
創業者は「高松定一」で、文政11年(1828)の生まれ。尾張藩から肥料を扱う御用達商人として許可されて開業した。創業の地は、堀川沿いの名古屋市中村区名駅南1‐1‐11(昔は「納屋橋」といった)で、現在も本社になっている。
当時の農村は、庄屋が肥料も扱っており、庄屋を回って魚粕などを販売するのが仕事だった。この食糧増産のために肥料を売るという商いは、今日になっても本業である。
初代の定一は商才が長けていて、瞬く間に商いを伸ばした。お陰で慶応4年(1868)には、尾張藩から町奉行所御用達格と格付けされ、調達金の拠出を命じられるまでになった。明治13年(1880)には名古屋の長者番付で前頭に格付けされた。初代の定一は『取予』という家訓を残した。これは「商いはお客様への奉仕が必要で、利益は細く長く頂戴するべきもの」という教えだという。今風にいえばギブ・アンド・テイクだ。
明治時代になると、二代目の定一が事業を飛躍的に伸ばした。名古屋には、旧御用達商人を主体とする「九日会」という集まりがあったが、そこにも入会した。
師定は、三代目の定一の代になるとさらに発展した。三代目の定一は、東京大学法学部卒という秀才だった。二代目の定一が死去したため、大正8年(1919)に家督を相続して社長になった。時代は恐慌に次ぐ恐慌という暗い世相であったが、青年三代目定一は、持ち前の切れ味で難局を乗り切り、家業を発展させた。昭和15年(1940)には名古屋商工会議所の十二代会頭に就任した。副会頭は、大隈栄一および三輪常次郎であった。だが、時代は戦争へと突入していった。
師定のピンチはなんと言っても終戦だった。終戦後に統制経済になり、物資を確保できず商いができなかった。運悪く三代目定一が昭和23年に死去してしまった。そこに莫大な相続税が課せられた。三代目定一の亡き後は、妻ちかが細腕で切り回した。昭和25年には、住友化学(住友肥料)などの特約店業務を再開した。そして現会長の正雄氏が昭和32年に家業に戻った。正雄氏はゴルフ場への肥料販売を開始したりして、緑の専門商社としての基盤を築いた。
現社長は正敏氏で、平成11年(1999)に36歳で就任した。「日本の農業は、技術的に世界一のレベルがある。日本の農業はこれから世界に進出する日が来る。当社はその発展に貢献したい」と語る。従業員は60人。事業内容は、農業用肥料・土壌改良剤・微量要素肥料・有機質肥料の卸売・農業用植物薬品など。
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