刈谷の角文といえば、西三河で知らない人がいない名門の建設会社だが、その角文は、文久3年(1863)の創業だ。
江戸時代の西三河には、神谷長四郎と代々名乗る豪商がいて、繁栄を極めていた。当時必要だった物資のほとんどを扱っており、今風にいえば総合商社だった。記録によると、元文5年(1740)には、金1万両に達する財産があった。十七代か十八代続いた名門だったが、明治の中期に跡継ぎがいなくなり没落した。
その神谷家の大番頭を務めていたのが、鈴木文助だった。鈴木家自身も名門で、刈谷藩から苗字帯刀を許されていた家柄だった。
文助は、神谷家から独立して、文久3年、材木の販売および建築を請け負う「角屋」を創業した。文助は、天保6年(1835)生まれだから、27歳で創業したわけだ。“角”屋の“文”助で、後に「角文木材」と商号を改めた。
文助は、時代を見るに敏だった。材木販売と建築請負を主力にしたのは、迫り来る文明開化の息吹を感じ取り、新しい時代に必ず必要になると見込んだからだ。
明治の世になり、文助が着目したのは教育だった。明治5年(1872)に学制が公布され、それ以降、学校が全国各地で建てられるようになった。新しい校舎の建設には、大量の木材が必要だった。文助の事業は時流に乗って急成長した。
文助は創業した頃に嫁を迎えたが、死別してしまった。再婚した相手は、かつての主家であった神谷家の娘みゑだった。神谷家は当時没落しつつあり、みゑがその血を引く最後の人だった。文助とみゑとの間には、三郎という男子が産まれた。この三郎が二代目として角文を発展させていくことになる。
文助は、当時の商家としては珍しく子供の三郎に高等教育を授けた。三郎は、慶應義塾に進み、福沢諭吉から直接教えを受けた。だが、在学中の明治35年に、父の文助が死去するという不幸に見舞われた。三郎はまだ17歳だった。そのため三郎は、学業半ばにして跡を継ぐことになった。
三郎は、諭吉仕込みの新しいセンスで事業を飛躍させた。三郎は、妻きわとの間に1男2女をもうけた。だが、その長男は終戦後にシベリアで抑留され、現地で死去してしまった。
現会長の鈴木孝平氏は、素質を見込まれて、養子として迎え入れられ、昭和28年(1953)に跡を継いだ。まだ23歳の三代目だった。
木材販売が主だった角文木材が建設業という業界に進出するきっかけを作ったのは、意外にも伊勢湾台風だった。昭和34年の伊勢湾台風は、刈谷にも大きな被害をもたらした。刈谷市は、仮設住宅を大量に造る必要に迫られた。人手不足、資材不足の中で、市の求める安い単価では、引き受けようという業者は少なかった。
だが鈴木孝平氏は決断した。「地元を助けることが先決。よし、引き受けた」と無我夢中で仮設住宅を建てて回った。その時ばかりは損を覚悟で請け負ったが、そのお陰で“信用”という大きな財産を築くことができた。そして、昭和35年「角文建設」を設立した。
鈴木孝平氏は、建設業にとどまらず事業を広げ、今では自動車の部品製造、ゴルフ場、人材派遣など幅広く手掛ける「KAKUBUNグループ」を形成するまでになった。
現社長の鈴木文三郎氏は孝平氏の長男で、昭和32年生まれ。平成2年(1990)に社長に就任した。平成5年には創業130年を記念して、新本社ビル(現本社)を建設した。同時にCIを導入し、長年親しんできた「角文木材工業」から「すまいの角文」へと社名を改めた。
定期借地権という制度を活用した住宅の提案を始めたのも鈴木文三郎氏の代だ。一般定期借地権付住宅とは、土地を地主から50年以上の契約で借り、建物を建てるもの。「もう土地は所有する時代ではなく、利用する時代だ。土地を売りたくはないが、活用したいという地主のニーズに応えたかった」という。
鈴木文三郎氏は「角文のモットーは不易流行。進取の気性を持ちながら、時代の変化に対応していきたい。それと同時に、信用第一とか地域密着という経営の理念を守っていきたい」と語っている。
平成21年には「すまいの角文」と「角文建設」を合併して「角文株式会社」と社名を改めた。本社は、刈谷市泉田町古和井1。
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