第1部 幕末の部/その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・秋田屋

 酒卸売業の株式会社秋田屋は、安政2年(1855)の創業。創業者は浅野儀一で、浅野家としては六代目当主だった。創業の地は当時「伊勢町」という地名で、現在は名古屋市中区丸の内3‐7‐30。酒の小売業で、庶民に清酒を量り売りしていた。

 同社の発展のきっかけになったのは、大正3年(1928)にキリンビールの特約店になったことだ。大正時代、まだ庶民の間ではビールは高級品だった。それ以降、キリンビールとともに発展し、大正15年、株式会社として法人化した。

 儀一の子、七代目儀助は昭和2年(1927)に社長に就任、浅野家はそれ以降「儀助」を襲名する。昔は酒造りをしていた頃もあり、昭和2年には自社醸造の「富久鶴」「草薙」を天皇陛下に献上した。七代目儀助は昭和8年に紺綬褒章を受けた。皇居での観菊御宴にも招かれた。

 順調に発展していた同社だが、壊滅的な打撃を受けたのは空襲だった。本店や支店が全滅した。昭和25年には、現社長の父である故慶太郎氏が社長に就任し、持ち前のバイタリティーで再建を成し遂げた。

 故慶太郎氏は昭和34年に世界を回った。そこで見たのはコカ・コーラだったという。そこで昭和36年には、中京飲料(中京コカ・コーラボトリング)の設立に参加した。その経緯もあって、中京コカ・コーラボトリングの大株主として含み資産を持つこととなり、絶大な信用を得た。

先祖の家訓を持つ浅野純史氏先祖の家訓を持つ浅野純史氏

 現社長の浅野純史氏は、平成10年(1998)に就任した。十代目(家業としては五代目)にあたる。平成の時代に入り、酒類業界は自由化の時代に突入した。業界には再編の嵐が吹き荒れた。長年の信用により、M&A(企業の合併や買収)の話が舞い込み、そのお陰もあって業容を拡大できた。現在ではグループ全体で年商400億円に達している。

 社長の浅野純史氏は「当社の強みは、どこにでもおいてあるようなナショナルブランドではなく、弊社ならではのオリジナル商品に特化したこと。当社でしか手に入らない酒を、多品種少量で入荷。その量とバリエーションは、こだわり商品のデパートと言われるほど。現在、利き酒師、焼酎アドバイザー、ワインアドバイザー、ソムリエなどの資格を持つ社員が沢山いる。社員全員が新たな資格取得に挑戦中です」と差別化に力を入れている。

 社長の長男の弘義氏は平成22年現在で、30歳。後継者の道を歩みつつある。社長は「問屋の商いは、細く長くあるもの。分相応で背伸びせずコツコツと続けてほしい」と期待をかける。本社は名古屋市西区天塚町2‐8‐1。

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー