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第1部 幕末の部/その2、ペリー来航

その時、名古屋商人は

「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機

 伊藤家とともに代表的な名古屋商人として本書が紹介するのは、岡谷鋼機の岡谷家だ。寛文9年(1669)、岡谷鋼機の初代岡谷總助宗治は名古屋の鉄砲町(現・岡谷鋼機本社所在地)で金物商を始めた。この初代岡谷總助宗治は、もと美濃加納藩七万石、戸田松平家初代光重の家来だったという。いわゆる清須越の商家ではない。

 岡谷鋼機のサイトには、
〈初代岡谷總助宗治(通称惣助)が、寛文9年、両刀を算盤に代えて、はじめて名古屋に店舗を構えたとき、暖簾の紋を「丸に五枚笹」、屋号を「笹屋」とした。

 創業当初に取り扱っていた商品は、農具(鋤、鍬、鎌)、工匠具(釘、錐、小刀、斧、鋸、金槌)、家庭用品(剃刀、鋏、鏡)、刀剣類など、鉄の加工品だった。 いつの頃からか、初代宗治の「宗」の文字に、鉄屋として、鉱山、埋蔵地を意味する「やま」を冠して、(やまそう)を社標として使用してきた。〉と書かれている。

 同社は現在、「岡谷鋼機株式会社」という名称だ。本社は創業の地である名古屋市中区栄2‐4‐18。社長は岡谷篤一氏。資本金91億円で、名古屋証券取引所に上場している。従業員数は、連結で4千人、単体で600人。[参考文献『岡谷鋼機社史』・参考サイト「岡谷鋼機のサイト」]

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー