慶応3年(1867)
その1、龍馬暗殺
――その時名古屋は・・・「ええじゃないか」と踊り狂う
慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬が暗殺された。
その日の夜、龍馬は京都河原町にある近江屋の2階座敷で陸援隊長の中岡慎太郎と会っていた。午後9時頃、龍馬から買い物を言い付かった下男が近江屋へ戻ると、数人の武士が龍馬への面会を求めた。下男は武士達を2階へ案内するため先頭を歩く。階段を上がりきったところで、武士は無言で下男を切り捨てた。
下男が倒れる物音を聞いた龍馬は土佐弁で「ほたえな(騒ぐな)」と注意した。その直後、部屋に入ってきた刺客は龍馬と中岡に斬りつけた。前額部を切られた龍馬はほぼ即死に近い状態であった。中岡もその2日後に息を引き取った。龍馬が息を引き取ったその日は、龍馬33歳の誕生日であった。[参考文献『一個人別冊 歴史人 坂本龍馬の真実』(ベストセラーズ)]
慶応3年(1867)から明治元年(1868)にかけ、東海、近畿地方を中心に奇怪な社会現象が起きた。天からお札が降ってくるというのである。
名古屋で最初にお札が降ってきたのは慶応3年8月28日であった。場所は現在の若宮大通沿いにある若宮八幡宮の西にある門前町であった。ここで行われた例祭で伊勢神宮のお札が降ったという噂を聞きつけて、群衆が押し寄せた。9月に入ると、名古屋城の正門から南へと伸びる本町筋の家などにもお札が降り始め、城下の町々でお札の降らない町はなくなったという。そしてこの年の11月初め頃までお札が降り続いた。人々は「ええじゃないか」と唱えて踊り狂った。大八車を2輛つなげて幕を張り、太鼓を鳴らし、笛を吹き、山車に擬して曳き回す者さえいた。夜になれば家々に提灯や篝火が焚かれ、女装する男、男装する女など、思い思いに扮装し、昼夜を問わず踊り狂った。人々は世直しを期待し、御鍬祭、梵天祭といった伝統的な例祭が催されるたびに、「ええじゃないか」を繰り返した。
熱狂する庶民の踊りを力で抑えられないと知った尾張藩は、祭礼期間を7日間とするお触れを出した。名古屋に降ったお札は伊勢神宮を中心に秋葉神社、豊川神社、津島神社などのものも含めて116種類、1265枚であったという。尾張藩は11月、改めて町触を出し、札祭りは家内にとどめ、店先から外へ向けた祭礼を禁止した。その後も一部では御札が降るが、名古屋での「ええじゃないか」は終息した。
岡谷鋼機の社史は、岡谷別家衆の話として、次のようなエピソードを伝えている。
〈「お札降り」は決まって金持ちの家に舞い落ちた。そのたびに人々は「奇瑞」〔めでたいことの前兆として起こる不思議な現象・著者注〕ともてはやしてお札の降った家に押しかけ、もてなされるままに飲み食いをした。岡谷家の場合、正方寺町の脇田屋久七方へ降った秋葉神社のお札まで引き受けて、2カ月間も商売の方は開店休業の状態で、「お札降り」で押しかける人たちを応待した〉(『岡谷鋼機社史』より引用)
尾張の民はこの頃、開国以来激しくなった物価高騰と飢餓に苦しんでいた。ええじゃないかは、食いぶちを求める人々の実力行使の意味も持っていたのだ。そして、その生活苦は、世直しを求めるエネルギーとなって爆発していくのである。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)・『岡谷鋼機社史』]
幕末というのは、現代風に表現すれば「恐慌」の時代だった。日本一の商都であった大坂は、富商が大勢いた。嘉永元年(1848)の『日本持丸長者集』という番付表は、富商を大関・関脇・幕内などに格付けしているが、日本の金持ち中の大関・関脇はことごとく大坂で占められていることになっている。富が大坂に集中していたのは事実のようだ。
その大坂商人は、幕末から明治維新にかけて倒産する者が相次いだ。『日本持丸長者集』の東の大関は鴻池善右衛門で、西の大関は加島屋久左衛門だが、その加島屋が潰れた。そのほかにも幕内クラスでバタバタと倒れている。
大坂商人が倒れた理由は、次のようなことが考えられる。
その① 「大名貸」が不良債権化したこと
大坂の富商は、全国の大名にお金を貸していた。それを「大名貸」といった。高金利で金を貸して儲けるので、政商としての色彩が強かった。だが明治維新後、版籍奉還になり、旧藩の債権・債務を新政府が引き継いだが、実質的にほとんど棒引きだった。いってみれば不良債権になってしまった。
その② 金の流出
欧米列強への開国時、日本と外国とでは金と銀との交換比率が違っていた。このため日本から巨額の金が流出し、残ったのは銀だった。銀は価値が低かったので、結果として財産が目減りしてしまった。
その③ 不況
幕末期は、参勤交代が中止になっていた。このため江戸や大坂などの大都市は消費不況に陥ってしまった。上のグラフは、三井越後屋の従業員数をまとめたものである。これをみると、幕末が経済的にいかに危機的状況だったかが分かる。幕末の主な出来事を見ながら、従業員数の推移を眺めてほしい。天下の三井にしても、幕末は生きるか死ぬかのピンチだった。
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