第1部 幕末の部/その8、新撰組、池田屋事件

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定

 繊維商社の瀧定は、元治元年(1864)の創業。初代の瀧定助は、郷里の丹羽郡東野村から名古屋東方町(現・中区丸の内2)に移り住み、絹屋定助の暖簾を継承して、呉服太物卸商を営んだ。当時19歳だった。初代の瀧定助は慶応3年(1867)に祖父である二代目瀧兵右衛門から財産分与を受け、名実ともに瀧兵(タキヒヨー)から独立した。

瀧定初代当主、瀧定助瀧定初代当主、瀧定助
『瀧定百三十年史』より

 初代の瀧定助はよほど傑物だったとみえる。明治の世に変わり、自由に商いができるようになると大活躍が始まる。初代の瀧定助は、資産を呉服卸売業務、金融業務、不動産投資の3つに分けて運用した。呉服卸売業務が主体だったが、収益の多くを不動産に投資した。その結果、一代で富豪となった。

 名古屋財界での活動も盛んだった。タキヒヨーと行動を共にすることが多かった。明治15年(1882)には名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)の設立に参画した。明治20年には尾張紡績の設立にも加わった。明治29年の日本車輌製造の設立に際しては有力な出資者になった。

 初代の瀧定助は、死期を悟ったためか、明治36年に「瀧家家憲宣誓式」を執行し、兄弟協和・一家団結を強く諭した。浮利を追わず、家徳を重んじるように戒めた。そして、同年に58歳の生涯を閉じた。

 初代の瀧定助の教えは、代々受け継がれていった。瀧定は、今日においては、誰もが知る優良企業になり、現在、瀧定名古屋株式会社と瀧定大阪株式会社とに分かれている。瀧定名古屋株式会社は、繊維専門商社として、婦人服地、紳士服地、紳士服、婦人服、カジュアル服などを販売している。社長は瀧昌之氏。

 本社は、名古屋市中区錦2‐13‐19。社員は約500人。[参考文献『瀧定百三十年史』・『創 Dream250』]

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー